エクスパンションを求めていい
運動らしい運動はしていないので、運動不足を感じたり身体を動かしたいと感じたときはドラムの練習に行っている。
今日もそんな気になったので、夕方2時間練習室の予約をとった。
その直後にラファエルから電話が来てジョインしないか?といわれたけど夜7時までドラムの予約したのでその後にしようといって切った。
そしてドラム叩きに行ってみると・・
初めて行った場所で設備がよくて、いつもより気持ちいい音がでる。
でも・・なんかおかしい。
なんか、ここ最近感じていたよろこびみたいなものが感じられない。
それで初めて気がついた。
ここ何日かラファエルといるなかで体験していたのがエクスパンションというやつなんだと。
そして今ここでドラム叩いていてそれは感じられないということに。
夜家に戻ったときラファエルがこんな話をした。
今散歩に行ってきたんだけど、エクスパンションの感覚がほしいと感じたので、スピリットにガイダンスをたずねまくっていた(そんなような話)と。
それを聞いて、ああ!!と何かが腑に落ちた。
そうか、エクスパンションの感覚を求めていんだ。
そしてそのためにガイダンスをもとめるんだ。
ここ何日かエクスパンションの感覚を実際に体験できていたおかげで、エクスパンションを求めること、そのためにガイダンスをもとめて従うということが、まったくなんの犠牲もないどころかそれこそがよろこびなんだ・・・ということが腑に落ちた。
そもそも、よろこび=エクスパンションを自分から求めていいんだと。
だからこそ自分からガイダンスをたずねるんだと。
いままで「ガイダンスをたずねる」って、なんかこの道を前にすすむための必修科目みたいなイメージがあって、イヤだけどしぶしぶやる、で、たまに結果としてご褒美がもらえる(かもしれない)みたいなイメージだったと思う。
それが、「ガイダンスをたずねる」=あの、エクスパンションの素晴らしい感覚を求める、ということなんだ、それじたいがまったくのよろこびにしかならないんだ、というのはかなり大きなどんでん返しだった。
「自分なりのたのしみ=ドラムを叩くことにエクスパンションがなかった」という経験と、最近のよろこびにみちたエクスパンション経験のコントラストが、はっきりと教えてくれた。
ああ、むりして自分で考え出した「自分をよろこばせるハズのもの」じゃなくて、ガイダンスとそこからのエクスパンションを求めるほうが、よっぽど喜びにみちた、広がっていく幸せな感覚が味わえるんやなと。
ああ、エクスパンションを求めてもええんやで。
エクスパンションのよろこびを求めてもええんやで。
そしたら、「ガイダンスをたずねる」ことにくっつけていた犠牲のイメージがまったくの誤りだったとわかる。
ああそうか、エクスパンションのよろこびがほしいからガイダンスをもとめるって、なんてシンプルで犠牲がなくて優しいんだろう。
ちなみにラファエルは電話したときに「ドラム?それはガイダンスじゃねえな」(みたいなこと)を感じ取っていたらしい。そこでは何も言わなかったけど。
で、ドラム予約する前に自分でもスピリットに聞いてみたのだけど、「ドラムGO」だった。
それも間違いとかではまったくなくて、ドラム叩きに行って、そこでエクスパンションのある・なしのコントラストに気づかせてもらえたおかげで、今ここに書いたようなでっかいどんでん返しに気づかせてもらえたのだ。
ガイダンスたずねるのは義務じゃないんやで。
エクスパンションというよろこびを求めるからこそ、やらずにおれなくなるもんなんやで。