思考をのっとってもらう。

今朝目が覚めると、何かうつ的な思考のようなものが上がってきてるのを感じていた。
うつ的な、個人の思考。
そして「個人的な思考」は、そこにしか到れない感じも感じていた。
うつ的になるしかないものだったんだと。


個人のプライベートな思考しかないのだとしたら、個人しかないのだとしたら、その根本的なベースには、その究極には、うつ的になるしかないんだ、、というような感じがあがってきていた。

 

今まで「私の世界」のベースにありながら、浮上させずにいた、意識していなかった、このうつにしかなりえないような個人的な、プライベートな思考形態。

 

ああ、これだとくるしいなあ、と感じながら、誰かにダイエットセッション※をしてほしいように感じた。

 

聖霊の言葉、聖霊の見方のスペースのなかで、このうつ的な何かを吐き出させてもらえたら。

 

そういうスペースを誰かに与えてほしい、と思ったとき、
同時に、ああ、そういうスペースを自分が与えたいんだな、というのが上がってきた。

 

自分自身が、この個人的な思考に囚われ続けるのではなく、ダイエットセッションでなされるような、聖霊側の視点・言葉・見方を与えていきたい。何に? このわたしの投影である世界のすべてに。

 

そして、自分のなかに浮上してきている、うつになるしかないような個人的な思考に対しても、自分でダイエットセッションしてあげたくなってきた。

 

「わたしの神聖性が、わたしがみるものすべてを包み込んでいます」

 

そのやさしい視線のなかで、さっきまであったような、個人的な、うつ的な思考をそのままあらしめてあげる。

 

そうすると、何か救いのようなものが感じられてきた。

 

ああ、ぜんぜん違う感じ。
個人的な思考のなかには、どこまでいっても究極的に幸福はみつけられない感じがあったけど、それとはまったく違う角度の幸福のような何かが入ってくる感じ。

 

そして「わたしの個人的なプライベートな思考」には不幸しかありえないことも、よりはっきり感じられてきた。

 

ちょっとした思考とか行動、たとえばスマホをあけてこれこれのサイトをみるとか、そういったことを決めて実行するとき、どんな小さなことでも「これはわたしの、私自身のプライベートな思考だ」というような思いがくっついてる。

 

そしてその「私のだ!」ということ、そのプライベートさに、自分の価値とか救いをみようとしてる部分があった。

 

でもその「私のだ」ということ自体が、究極的にはうつとか不幸にしかつながらないということが感じられてきた。

 

ああ、こんなにも細かいことのようにみえる、一瞬一瞬の思考、ちょっとした行動についても、「わたしのだ」というのを手放していくことになるんだな、、、というのが上がってきた。

 

そこにしか真の幸せはないのだな、と。

 

すべてたずねる。
思考をのっとってもらう。

 

あなたのいのち以外、どんないのちもありません。
あなたが担当です。
あなたがなさってください。
あなたがわたしの思考のすべてを司ってください。

 

まだまだ個人的な思いが多いけど、
どんなに個人的な思いがあっても、「私の聖性が私がみるものすべてを包み込んでいる」「光はすでに来ている」といったダイエットセッションの聖霊側の視点のなかにそれらを包むことはできる。

私は真の幸せを求めます。

 

 

※ダイエットセッション:ペアになって見つめ合い、一人は自分のなかに湧き上がることを自由に話し、もう一人は相手の話にまったく相槌などの反応をせず、聖霊の透徹した視点から「私の聖性が私が見るものすべてを包み込んでいる」「光はすでに来ている」といった聖霊の思考だけをめぐらせ、(沈黙が訪れたときには)口にするセッション。