よろこびを知って生きる

コースにまつわる学びというのが自分にとってすさまじいと感じていても、いざそれを誰かに伝えよう(ひとり語りのブログではなく、誰かに向かって伝える)となったとき、自分の内側の声とつながれていない違和感を感じて、言葉にしても借りてきたような、自分の言葉でないような感じがして嫌だった。(たとえば前の記事のカースティン・フランシスリトリートの告知とか。)

 

そもそも、自分はものごころついたときから「Good boy であること。とくに母親にとっての。」を最優先事項・死活問題として全身全霊をそこに傾けてきたところがあって、ずーっと「自分の内側の声とのつながりがない」ということがコンプレックスだった。

 

まわりにいる、自分の内側の声が何なのかわかっていて、それに素直にしたがって自由に声を発したり行動したりといった人たちをみて(子供のときはとくにそういう子がたくさん目についた)、まったく謎だった。

 

彼らのような内側からのサムシングが感じられない、オレはいったい何なんだ。


そんなわけのわからない「わたし」とか、「他人」とか、「この世界」とか、それが何なのか真実を知りたくてたどり着いたのがコースだったと思う。

そしてコースをまなびはじめてからも、この「内側のサムシングとつながれてない感じ」はずっとあったと思う。

 

 


それが今日、ちょっと光が見えてきた。

今日の宿でふと、この2ヶ月の間、仕事のための時間を大幅に減らしていることを思っていた。
そして気づいたのは、もし仮に、このまま仕事を完全にストップさせたとしたら?ということを想像したとき、そこに大きな恐れがあるということだった。

「ちゃんとお金を稼いでいるちゃんとした人として見られないことの恐怖」みたいな。

 

そしてこの恐れは、子供のときの「Good boyでいないといけない恐怖」と同じだな、と気づいた。

さらに見えてきたのは、これらの怖れとか信念が、自分が内側のサムシングとつながることを完全に妨げていること。


そしてここをちゃんとみてもし自由になれたら、ずっと憧れだった(笑※)内側のサムシングとつながって生きれるという予感だった。

 

※最近では坂爪さんやミユさんへの敬愛・憧れがとても強い

 


「(想像上の)誰かに受け入れられるためのマスク」(ちゃんとした人とかgood boy とか、スペシフィックなのがいろいろある)を外す怖れをみて、それから自由になれる可能性にこころをひらけたら、裸になって、内側のサムシングにつながって、そこをたよって生きるしかなくなる、それがたしかにできるという予感。

 

 

言葉でいうとこれだけの話だけど、自分のなかでのインパクトは非常に大きかった。

 

自分にとって、この内側の声、サムシングとつながれるかどうかが決定的なポイントだと強く実感している。

 

コースの学びを誰かに伝えるにしても、こことつながれてるとこから話すのでないと、自分にとっても相手にとってもまったく意味がないかんじ。

 

そして自分にとっての真の「よろこび」というのが、この内側のサムシングとつながれる予感を感じて、初めてほのかにイメージできた気がする。

 

こことつながらずにどんないい教えを聞いても語っても意味がない。よろこびにつながらない。

逆にここに深くつながればつながるほど、何を言おうが伝えようが関係なく、自分にとっても相手にとってもいい影響が結果的にもたらされることになるんだと思う。

 

 


今日ふと思ったことからの気づきだったけど、こんなふうにスルスルと気づきが展開していったのは、ここ最近の、コースを実際に生きた学びにするためのファンクションをやらせていただけてること、その場をあたえてくださっているだけでなく、祈りの道を歩く様をそれぞれがみせてくださっているブラザーズアンドシスターズの方たちの姿、あと自分でもinstrument for peace を繰り返し繰り返しやっていたことなどが、確実にたすけになってくれたと思う。

それらがあったから、「マスクを本当に外して真っ裸になったらどうなる?」という想像に耐えることができて、マスクがいっさいとれてコネクションが復活した状態を感じとることができたんだと思う。

 

さらにコースのまなびを深めながら、このコネクションをぐんぐん育てていきたいし、そうしていけると感じている。

そしてそこから裸のままで自由に語れるようになることが、今の自分の本当にこころからの祈りだ。