聖霊へ。

知覚というものに激しく怒っている。

形に文句をいっている。

その理由、文句を言うための理由づけ、正当化の理論が理にかなっていようがなかろうがどうでもいい。

先日の江の島以降、このことを繰り返し教えられているように感じています。

 

あるときは、
たんに父が大きい音量でTVを見ているだけのことにたいして、
どうしようもないくらい激しい殺意が湧いてきて、
同じ空間にいたら何をするかわからんくらいヤバいので
風呂場に逃げ込んで、長時間半身浴することで
なんとか事件を起こさずにいることができたと感じました。

同時に、これについて父に何か文句を言ったりするようなものではない、
それはまったく意味がないことだ、というのもはっきりと感じていました。

あの理由のない殺意はほんとにヤバくて、
これで今まで何回か殺したことあるんやろな、と感じるくらいでした。

でも恩寵だと感じるのは、
そうやって殺意、激しい怒り、攻撃性を感じることをゆるしたあと、
翌日は、自分のなかが驚くほどすっきり風通しがよくなっていたのです。

自分には何が起こっているのかわかりませんが、
恩寵なのだと感じました。

ありがとうございます。

 

似たようなことが仕事をしていたコワーキングスペースでもありました。
そのときは運営の人たちが目の前で机や椅子のレイアウト組み直し作業をやっている、
それだけの事にたいして
激しいどうしようもない怒りを感じ始めました。

でもその後
帰るときにたまたまその人たちと会話する流れになり、
その会話のなかで
あの激しかった怒りがきれいさっぱり溶け去ったと感じました。

この流れもひとつの恩寵だと感じました。

 

また、父は相変わらず詐欺を信じていて、
昨日は100万貸してくれと言ってきて、また大きな衝突がありました。

この言い合い、応酬のなかで、
どういうわけか以前の同じような状況では感じなかった静けさが
心のなかにあるのを感じていました。


何か自分にはわからない、
恩寵のようなものが与えられているのを感じました。


父やコワーキングスペースの人たちというかたちであらわれてくれている存在が、
こうやって助けてくれているんでしょうか。

 


昨日のみんなとのミーティングでも
激しい怒りが出てきました。

そういう機会を与えてもらえないと浮上できなかったものを
浮上させてもらえました。


今感じているのは、トリガーが何れであれ、それをきっかけに感じる深い怒りが出てきたときに、
そのトリガー込みで
深く自分のなかに感じさせてあげたいということです。

 

それと同時に、ここ何日かとどまっている
ワークブックのレッスン78
「奇跡がすべての不平不満と入れ替わりますように」が、
このぴったりのタイミングで与えられていると感じています。

攻撃を正当化するために形をみている。
その攻撃を、奇跡と入れ替えてほしい、と決断することができる。

その決断の力について
このレッスンをとおして教えられているように感じます。


「あやまりについてはあなたの責任ではないが、訂正を受け入れることはあなたの責任だ」

という話をどこかで聞いたのを思い出しました。

 


冒頭の
「知覚というものに激しく怒っている。
形に文句をいっている。
その理由、文句を言うための理論、正当化の理由が理にかなっていようがなかろうがどうでもいい。」

ということについて、

レッスン22
What I see is a form of vengeance.
わたしがみているのは復讐のイメージだ

というのが、本当にそうだと感じます。


形の中に救いはないどころか、
形は攻撃を正当化するために見ている。
そのことをしっかりと、攻撃も含めてまるごと認めてゆるして、
奇跡と取り替えてもらうことを意志したいです。

あらゆる形を怒りと攻撃の正当化のために使おうとしている、
そのために形を見ようとしている、
それを認めて怒りと攻撃を自分のなかにゆるすのは、
ある種の気持ちよさも感じます。

そうして、
その攻撃を奇跡と取り替えてもらいたいです。

今のこの目の前の形・知覚をとおして、
それらを使ってもらいながら、
それらを超えた奇跡を受け入れることを意志したいです。