痛みをともなうような激しい攻撃(神とのコミュニケーション障害③)

エスちゃん、リトリートの3日目のことなんじゃけど。

この日は昼のセッションはなくて、スーパーにみんなで買い出しに行くことになったんじゃ。

担当グループ分けをあみだで決めたんじゃけど、
そんときは前日に言われたことをきっかけにれいさんへの憎しみが浮上しとって、
れいさんだけは避けたいと思っとったら案の定れいさんとのグループになった。

ほいでスーパーでもかなり憎しみが吹き出しとった。

前、東京撮影のときとかは、
どっちかっていうと「理由のない好感」をれいさんには感じ取ったけえ、
憎しみを感じながら、
わしの知覚ってほんまにほんまにいい加減じゃのう、
ほんまにたよりにならんもんなんじゃのう、
というのを感じとった。

そういうことはあったんじゃけど、ファンクションしとるうちに
だんだん自然とその憎しみも感じられんようになっていった。


ほいで全般的には、
前のブログで書いたようなことを感じとった。

コミュニケーションの結果として
(勝ったり優位にたったり、何らかの立場をもった)自分っちゅうのを維持・キープせんでええんじゃ、
コミュニケーションのなかで何がでてこようとも
それにまつわる自分のすべてを取り去ってもらうことにしか平安はないし
それがコミュニケーションの目的なんじゃけえ、
ほんまに何がでてきてもええっちゅう気持ちでコミュニケーションにダイブしていけるんじゃ・・・

そういうあきらめと解放感みたいなんを感じとったけえ、
コミュニケーションをとっていける、そこに飛び込んでいけるんじゃっていう意欲と、
すごく楽な感じを感じとった。

そういう感じで夜のセッションに入っていって、
ほんまに何がでてきてもええけえコミュニケーションを取りきりたい、
その先の神とのコミュニケーションへとつながっとる目の前の相手とのコミュニケーションをとりきりたいっていう思いがあって、
前日にしょうこさんとれいさんに言われたことについて
自分のなかにあったものを話させてもらいよった。

そうやって話しよるとき、
わしの知覚のなかではしょうこさんがずっとにらんできとるように感じられて、
しょうこさんとじっと目と目を見合うようなことが起こっていったんじゃ。

わしん中ではこのコミュニケーションの結果何がでてきてもええんじゃっていうつもりじゃったんじゃけど、
しょうこさんの視線のなかに知覚した敵意・攻撃っていうのがこんなにも痛くて怖いもんなんか!!
っていう驚きみたいなんを感じ始めとった。

それでも、
このコミュニケーションのなかで出てくるもんをぜんぶ見切りたい!
っていう欲求が強くて、
ずっとしょうこさんの目を見ながら、
わしの知覚のなかに感じられるもんを感じよった。

痛くて、怖い。

起こっとることは目と目を見合っとるだけじゃけど、
わしの知覚のなかでは
無数の矢を、絶えずこっちに向かって射られつづけとるような知覚じゃった。

「ずっと攻撃され続けとるように感じる」ってシェアしたら、のりこさんから
「しょうこにどうしてもらいたいと思っとる?」って聞かれたんじゃけど、
実際の行動は目と目をみとるだけじゃから、どうにも言いようがないと思った。

あえて言うなら
「矢を射つのをやめてほしい」
ってことになるんじゃけど、

実際に矢を射っとるわけじゃないんやから(笑)
たのみようがないのう、って感じとった。

 

で、この辺から、
あら??この痛みを伴うような激しい攻撃、
これがしょうこから来とるとわしは思っとったけど、
この知覚ってわしのなかにあるもんやんけ・・・
って感じ始めたんじゃ。

「わしの知覚の中」にしかないんちゃうか・・と。

ここまでの痛みと恐れを引き起こすような激しい攻撃。

これが実在するっていうことに、自分の中で自分でしとるのはたしかじゃよな。


ってことはわしがわしのなかにこの攻撃を実在させとるっちゅうことやんな。


この激しい痛みをともなうような攻撃は、わしのなかにあるんじゃ。。

わしが攻撃しとるんじゃ。。

 

それを自覚しとうない、

自分が莫大な攻撃をしまくっとるってことを見とうない、

自分を被害者にしときたい、

そのために「一方的にしょうこにやられとる」ってことにしようとしとる。

「お前が攻撃するけえいけんのんじゃ、わしは無垢な被害者なんじゃ」ってしよる。

そういうふうにだんだん感じられてきた。

(自己概念Aとかの話を思い出しとった。)

 

これほどの実感をともなって、
激しい痛みと攻撃を
他でもない「わしが」存在させとるんじゃと感じさせてもらえたことは、
今この瞬間までもつながっとる、
わしのこの世界の全体の知覚にも深く関わっとる、
めっちゃありがたいことじゃったと感じとる。

これはしょうこさんの存在なしでは絶対にありえんことじゃった。

もじどおり、けんたという人間ひとりでは絶対にわからんかったことじゃ。

ほんまにありがとう。

 

やっぱり、
コミュニケーションのなかで何がでてきてもええ、
その結果自分が維持されんでもええ、
じゃけえコミュニケーションにダイブできるんじゃっていう感覚があったおかげで、
何が出てくるように思えてもそこにとどまり続けることができたと思うし(あんな痛みと恐れを感じるとは予想しとらんかった)、
そのおかげで気づくべきことが気づきに上がってきたんじゃと思う。


こうやってちゃんと導かれとるし、
マイティコンパニオンなしではむりなんじゃの。

今できるかぎり最大限、コミュニケーションへの意欲を差し出したいと思うわ。

神とのコミュニケーションが復活するように。