神とのコミュニケーション障害②
イエスちゃん、
リトリート2日目の9月3日は昼と夜にセッションがあったんじゃの。
この日の昼のセッションじゃったと思うけど、
れいさんとしょうこさんにボロクソに言われるという知覚があったんじゃ。
れいさんからわしへの非難の言葉を聞いとるときは、
なんか「こういう非難をぶつけても問題のない、傷つくことのない、けんたの奥にある何か」に向かって言われとるような気がして、
れいさんの非難の言葉が、その「傷つくことのできない何か」を認証しとるように感じて、
個人的な不快感や痛みはあったけど、
それとは別に、何かええような感覚も感じとった。
その後しょうこさんの非難の言葉を聞いて
罪悪感や痛みを感じながら昼のセッションが終わったんじゃけど、
その後の時間はどういうわけかすげえスッキリ軽い感覚があったんじゃ。
近年感じたことがないくらい、
あの、喉から胸にかけてのこわばりが軽うなっとった。
二人の、けんたをボロクソに言う言葉を聞いたと思ったんじゃけど、
それが何かええ方向に向かわせてくれとるようじゃった。
ええ意味のあきらめというか。
今まではやっぱり、
このけんたという人間をキープしたまま、
けんたのええ感じの人間関係をキープしながら、
このけんたという人が平安や幸せを感じれるようになっていくんや、って
そういうふうにしようとしとったんじゃの、って・・
このことを、
彼らの打ち明けをとおしてあらためて深く気づかせてもらえたような感じじゃった。
そしてそれがもう「完全に希望のないこと」なんじゃってつきつけられたような感じ。
そのええ意味でのあきらめが、この軽さや開放感につながっとるんじゃろうって感じとった。
でも同時に、もうこれまでのような感じで二人と関係をもつことはできんのんじゃろうという
どこか方向性を失ったような、どのように人間として関係を持っていけばええのかわからんようになった感覚もあったんじゃ。
ほいでそのあと、このええ感じ、軽い感じのなかで料理ファンクションに参加することになったんじゃけど、
ファンクションに参加するとあらためて否応なく人間関係をもつことになるわけで、
その中でいろんな感情やジャッジが上がってきて、
それまで感じとったスッキリ軽い感覚がまた薄くなっていくように感じられとった。
ほいでこの料理ファンクションのメンバー変更についての連絡がされとらんかったことから、
「コミュニケーション障害」についての話を聞くことになった。(のりこさんじゃったか、ようこさんじゃったか、じゅんこさんじゃったか、よう覚えとらん。。)
わしらはほんまにコミュニケーション障害なんやで、
神とのコミュニケーション障害で、
それが兄弟とのコミュニケーション障害というかたちでもあらわれとるんやで(わしの理解じゃけど)
っていう話。
これまで何回ものりこさんから話としては聞いてきたことじゃったけど、
いまいち自分ごととして感じられとらんかった話。
それが、この日に感じとった
「けんたの人間関係をええ感じにキープし続ける(それによってけんたという自己概念もキープし続ける)ことへのあきらめ」
の中で「コミュニケーション障害」の話を聞いたとき、
何か入ってくるもんがあったんじゃ。
ああ、
神とのコミュニケーションを求めるなら、けんたなんかキープし続けられるものなんじゃないんじゃの、と。
その逆で、
神とのコミュニケーションを求めるんなら、
今目の前の人とのコミュニケーションのなかで
けんたのなかに浮上してくるものすべてを浮上させながら
けんたというものをすべて取り去ってもらうしかないんじゃな、と。
そのためにあらゆるコミュニケーションの機会があたえられとって、
そのなかででてくるものをあますとこなくすべて浮上させるためにそのコミュニケーションがあって、
それをとおしてけんたという人をキープする必要はなくて、
その反対に
そのコミュニケーションをとおして
けんたのなかにあるすべてを浮上させて取り去ってもらうためにコミュニケーションがあるんやなって。
そのコミュニケーションをやりきることが
神とのコミュニケーションの復活につながっとるんじゃなって。
ああ、コミュニケーションをとおして勝ったり優位にたったりすることで自分をキープせんでええんや、
その反対に、
自分を取り去ってもらうしか平安や救いはあり得んのじゃけえ、
自分のもっとるすべてを取り去ってもらうために、何がでてきても完全にええんじゃっていう姿勢でコミュニケーションにすべてをささげることができるんじゃ、なんのためらいもホールドバックもせずに思い切ってコミュニケーションのなかにダイブすることができるんじゃ・・・
こういうんが
ガーーって入ってきたんじゃ。
これは、すげえラクになるのう・・・と感じさせてもらえたんじゃ。
今まではわしっていう人間をキープせんといけんけえ、
そのためにはコミュニケーションから閉じ続けるしかなかった。
ほいで隠しながら、小出しにしながら、勝った負けたっちゅう解釈を繰り返しよったように感じる。
それがあらゆる苦しみの維持につながっとったような気がするんじゃ。
それをやめて
コミュニケーションのなかで何がでてきてもええんじゃっていう中でそこに飛び込んでいけることの解放感みたいなのが感じられ始めとった。
これは具体的に何を話すとかじゃなくて、
なんというか、
目の前の人と本心から目と目をあわせて向き合う意志をささげること、
その先に神とのコミュニケーションを求めとることを意志しながら・・・
っちゅうようなイメージがある。
あらゆるコミュニケーションのなかに、
神とのコミュニケーションを求めることを意志して、そのためにすべてをささげるっちゅうのは、
解放感を感じるのと同時に、
何か覚悟みたいなんがいるように感じた。
夜のセッションで、
のりこさんに向かってのりこさんの目を見ながら話させてもろうたとき、そういうふうに感じたんじゃ。