エスちゃん、
わしの、けんたの救いの計画は、
女性への欲望の成就でした。
かわいい子といちゃいちゃできることが救いじゃと。
 
今までも何度かこれについて触れて話したことはあったけど、
今回この欲望の成就がある形で否定されたとき、
これほどまでに「私の救いの計画のど真ん中」にそれがあったんかということを感じて、それが否定されたという知覚にある種の絶望のようなものを感じとった。
 
前のリトリートで「ただただキモチワルい」と言われたときは、その指摘が具体的じゃなかったのもあって自分のなかの気持ち悪さを自分で直視することを避けられとったのが、
 
今回は自分のキモチワルさを具体的につきつけられて、
しかもこれまで「自分の幸せの探求のコア」にあったものがそうなんじゃっていわれたように感じて、
そのキモチワルさ、自分が信じとる自分の邪悪さから目をそらすことができんようになっとると感じとる。
 
今までそこそこええ感じじゃと自分で思おうとしとった自己イメージが、ほんまはこれほどまでに邪悪で汚くてキモチワルイと人から思われるもんじゃったんじゃ、、ということに目が開かれていっとるように感じとる。
 
そしてこれはええことのように感じとって、前よりも地に足をつけることができ始めとるように感じとる。
 
見ないようにしていたことを見ることができ始めたような。
 
 
 
 
経緯。
こりずにまたエステに行くようになっとった。
 
自分のあたまでは計画を立てとって、月に何回行ける計算やからこういうスケジュールで行こうとか考えとった。
 
それが先日仕事が終わって家から最寄りの駅に着いたとき、興味本位で内側にたずねてみたら、予想外に(自分のたてたスケジュールから外れたペースで)「今から行く」という感じがして、そのインスピレーションに従うことにした。
 
その時間に入れる女の子は最近Twitterをたまにチェックしとった人で、信念をもって希望を持って仕事をしとるように感じられて(エロいマッサージじゃけど、それをとおしてどんな形でもみんなが幸せになってほしいとか、そういう内容をつぶやいとった)そこに好感をもっとった人じゃった。
 
その人が空いとるか確認したら時間とれるっちゅうことで予約した。
 
そのあと時間がすこしあったけえ、部屋に帰って前回のブログを書いた。
 
のりこさんの最新のブログに啓発されたことに触れたブログで、
「わしが(自覚の外で)やっとることを全部認めたい。それでそこからの助けを求めたい」っちゅう祈りが最後に出てきたものじゃった。
 
そのあとすぐ、そのメンエスに行った。(偶然めっちゃ近くで、歩いて1分くらいだった)
 
あとから考えると、このブログに書いた祈りが速攻こたえられた、っちゅうことになったんじゃと思う。
 
 
そのメンエスで何が起こったか。
その人の施術は今まで経験した中でも最高レベルにエロいと感じられるものだった。(メンエスは原則ただのマッサージやけど、人によって施術内容が違う)
それに触発されて、自分も躊躇なく触りまくった。(そうしながら、やっぱりわしにとってはそれこそが救いじゃと感じとった。)
 
途中、声もけっこう出とったしかなり濡れとったからそれほど嫌じゃないんじゃろうと思っとった。
でも終わってから話しとるときに、その人は感じとったこと、感じとることを率直に話してくれた。
 
「なんかこの触わられた辺り、へんなものをうつされた感じがする」
「知らない人に触られるのはキモチワルイ」
(こっちからは親しみようなものを感じとったとしても、相手からするとこう見られとる)
「気持ちよくさせようとしとるんかもしれんけど、その全身を撫で回すような触り方がキモチワルイ」
「電車で痴漢されとるような感じがした」
「なんかお祓いしてもらう必要があるような、キモチワルいものを伝染(うつ)されたように感じる」
(自分が信じたいと思っとった自己イメージは逆になにかええものを相手に与えるというものじゃった。実際はその正反対のものを与えとると指摘された)
 
 
 
自分にとっては女性への欲望を成就させることのみが、
このけんたにとっての救いであり、この世界に存在し続ける理由であり(「いつか成就するはず」)、「善」であると信じとった。
 
その自分にとっての「善」が、じつはまったく善どころか犯罪のようなもので、気持ち悪さを相手に背負わせるものでしかなかったということ、
自分でも気持ち悪いとジャッジしとった痴漢犯や盗撮犯とまったく自分が同じどころか、自分の存在意義とか幸せを求めるとる中心・コアがそれじゃったんじゃということ。
 
そういうのをつきつけられたように感じた。
 
ここまで言葉ではっきり言われたことにたいしてはダメージもあったけど、ほんまに言われんとわからんからありがとう、という気持ちもあって、実際そう伝えた。
 
(ここまではっきり言ってもらわんと、絶対に自分の中で「ええように解釈して」、同じことをやり続けとったと思う。)
 
ほいで、この今感じとる絶望のようなものは、
以前「口臭がくさい」と言われたときに似とるんかな、と一瞬思ったけど、
それ以上のものがあると感じた。
(感情的な落ち込みはくさいと言われたときのほうが大きかったけど。)
 
「くさい」っていうのはただ自分の身体がそうなんじゃ、っていうことにすぎんかった。
 
でも今回のは、
 
「(自分の定義による)自分にとっての救いと幸せを求める言動、自分がこの世界に存在し続ける存在理由そのもの」
 
がキモチワルイと言われたという知覚になっていて、
くさいといわれたときよりも、より
 
「これが自分の救いじゃと思っとったもの、自分のコアからの願い(と思っとったもの)」がキモチワルイものじゃったんじゃ。。。。
 
という、
「この世界に存在しときたいと思える、けんたの存在理由そのものが、否定されるべき邪悪なものじゃったんじゃ」という大きな衝撃を突きつけられたように感じた。
 
 
 
 
のりこさんのブログにあった、
「自覚の外においとる、自分が本当に邪悪じゃという毎瞬の信じ込み」
それがこの投影世界に期せずしてあらわにされて、それに気づくことができたようにも感じた。
 
思うに、わしは幼少のころからほんまにこれ(女性への欲望の成就)を自分にとっての救いの中心に置いとった。
 
性的に成熟してからとか関係なく(思春期になってからとか関係なく)、
幼稚園くらいからそういう欲望の成就を救いととらえとった記憶がある。
ピアノの先生のスカートのなかに潜りこんで下半身を触ろうとしたりとか。
 
そういう欲望を今までずっと持ち続けとる。
 
でもそこには今回指摘されたような気持ち悪い邪悪さがずーーっとにじみ出続けとったんやな。
 
自分に彼女ができん大きな理由のようにも感じた。
 
人を人として愛せんというか。
 
 
この自分が信じとるらしい邪悪さについて、自分が何を信じとるんかについて、はっきりと見たい、着地したいように感じて、そのために助けが必要じゃと感じて、のりこさんに個人セッションをお願いした。
 
 
そのセッションでは、今まで何回も聞いた記憶のある話の内容が、初めて「自分のこととして」入ってきたように感じた。
 
この世界の全ての悪しきことの全責任が自分にあるというレベルで本当に激しく自己憎悪していて、二度と浮上してこないように自分で自分をいちばん深い闇の底へ押し込め続けていること、
 
その深い自己憎悪の場所へ目を向けないようにするために、この世界での分裂した「被害者キャラ」「加害者キャラ」を作り出してそこに激しく同一化して、攻撃したりされたりを演じ続ける必要性を感じてそうしているということ、
 
その激しい自己憎悪の「理由・原因」は、
神・愛・天国を自分が破壊してしまって、神からの復讐を恐れる必要があるという信念じゃということ、
 
この信念と激しい自己憎悪が愛・天国の入り口にいる門番のように感じられていて、この自己憎悪に気づかないようにシステムが構築されているので、その向こうにある愛や天国の存在はさらに遠く隠されているように感じられていて、だからこそ自分にとって愛とか天国が想像もつかないものになってしまってるんだということ、
 
この天国の入り口にある門番のように感じられる激しい自己憎悪から、わしが世界や自分じゃと思っとる知覚できるあらゆるすべてがやって来とるっていうこと、
 
じゃけえ救いのためには、この門番のように感じられとる激しい自己憎悪から根こそぎ、そこから来とるわしが世界とか自分と思っとるすべてまで根こそぎ、聖霊に手渡すしかないんじゃということ、
 
そして聖霊は、この激しい自己憎悪の「原因・理由」とされとる「私が神・愛・天国を破壊した」という前提について、「それは起こっとらんよ〜」とずっと言い続けてくれとるということ、
 
こういうことたちが。
 
ほいで初めて、今までかすりもできんかた「愛とか天国がほんまにあり得るんじゃという実感」、あの激しい自己憎悪が門番のようにその手前に立って、そっちに近づけんようにしとるように感じられてきた愛とか天国の可能性みたいなものが、ほんの少し実感されることが起こったんじゃ。
 
あ、ほんまに今この瞬間に完全に救われとるんじゃ、何もしていかんでもええし、何かになっていく必要もないんじゃっていうような。
 
 
そこにずっと気づけるようになるためには、
その手前にある門番のところで、いかに自分が自分を激しく強烈に憎悪して闇の底に押し込めようとしとるんかっていうのを見んといけん。
 
それを見んようにするために、この世界のあらゆるものと、自分キャラへの同一化を演じとんじゃっていうことを見んといけん。
 
ほいでそれらすべての根本の「理由・原因」は実はぜんぜん起こっとらんかったんじゃっていうことを教えてもらえるよう、助けを求めんといけん。
 
 
こういうことが、今回の体験と、個人セッションを受けさせてもらえたことをとおして、初めて自分のこととして感じられ始めとる。
 
 
 
個人セッションでののりこさんの言葉もそうじゃし、あの駅で感じた「今から行く」っていうインスピレーション、部屋で書いたブログの祈りが数十分後にすぐにこたえを与えられたこと・・・
 
こうして確実にみちびかれとるんじゃっていう証もわかるように教えてくれて、ありがとう。
 
今回のことをとおして感じさせてもらえとることを、もっともっと深く確実なものとして感じたいです。
 
そのためにどうかお導き下さい。
その声をわたしが聞いて、導きを受け入れて従うことができるようにたすけてください。
 
あなたの御業が展開されていきますように。
 
そのためにわたしという場所が使われますように。