MacBookにイライラ

エス
macのファンが意味不明に超回転してうるさいことにめっちゃイライラしました。
パソコンを投げつけて壊したくなるくらいの怒りがわいてくる。

私はあらゆる動揺を完全に手放したい。

あらゆる動揺を完全に手放すための第一歩として、
インストゥルメントフォーピースをやってみました。

macのファンがうるさいことについて考える時、
わたしはイライラと怒りを感じ、
まともに作動しないmacとアップル社が責められるべきで、
自分の思いどおりの時間の使い方が侵されて、数少ない私の持ち物である時間が奪われることが起こるのを恐れています。」

私はこの事象のなかで自分が演じている役割を、
罪悪感なしにハッキリとみたい。

みれるのであれば見方を教えてほしい。

 


macのファンがうるさいことについて考える時、
わたしはイライラと怒りを感じ、
まともに作動しないmacとアップル社が責められるべきで、
自分の思いどおりの時間の使い方が侵されて、数少ない私の持ち物である時間が奪われることが起こるのを恐れています。

これらのことは、
私が限られたリソースしかもっていなくて、それを奪われてしまう存在だ、という信念について正しいことを証明しています。」

私はこの知覚について、自分のこの見方こそが正しいのだという望みを手放したい。

そしてそのかわりに幸せを望む。

自我という歪んだ考え方、見方をとおして、
私は自分のイライラの原因とその解決方法が、心の外側にあると知覚しています。

この投影は実にリアルに見える。
なぜならその目的は、心が内側を見ないようにすることだから。

このイライラの原因は、この投影によって見ないようにしている心の内側にあるのか・・・・!?

いったいそこに何が・・・・!??

 


もしこのイライラの原因と解決策が心の外側にあるのだとしたら、
私は自分の心の状態を決める力を外側に明け渡してることになります。

つまり自分の心の状態について、実に無力ということになります。

この無力さを、私はほしいのだろうか????もとめてるのだろうか???

この無力さを・・??

 

私の投影(内側に見たくないものを外側に見ること)が、
私が無力さを感じる理由であり、

まともに作動しないmacやアップル社、または
自分の思い通りの時間が奪われることへの恐れが、
私の動揺、イライラの原因に見える理由なんです。


(じゃあ、私の動揺、イライラの真の原因は何なんだ!???教えてくれ!!!)

 

 

macのファンがうるさいことについて考える時、
わたしはイライラと怒りを感じ、
まともに作動しないmacとアップル社が責められるべきで、
自分の思いどおりの時間の使い方が侵されて、数少ない私の持ち物である時間が奪われることが起こるのを恐れています。」

これらすべては、
「私が限られたリソースしかもっていなくて、それを奪われてしまう存在だ」
という信念の結果として現れたものなんです。

この信念が、イライラと怒りの直接の要因ってことか・・・???

泣き叫んどるんか・・。

無限の愛をなくしてしもうた、
もう限りあるものしかないんじゃ、言うて・・・。

 


私が何かに動揺するのは、
その事象が、
私が見ることをさけている信念を映し返しているときだけです。


私がそんな何かを責めたり恐れたりするとき、
それは動揺とその解決方法をあるがままに(つまり心の中の決断だと)
見ることを妨げるためであり、
その代わりに信念を見ないようにするために作り上げた
自己概念、世界のイメージを維持するためなんです。


この心のトリックが
罪悪感や恐れの責任をどこかへ移し替えるように見えたとしても、
実際にはこれによって動揺の感覚を維持し続けることになる。

自己概念や世界のイメージを責めたり恐れたりすることは、
自分をこの(信念を見ないようにするためにでっち上げた)物理的な世界に制限し、
私の真のアイデンティティであるスピリチュアルな抽象性を否定します。


あらゆる動揺を手放す最初のステップとして、
自分の外側にあると思っていたものを、
自分の心のなかに見ることを、私は望みます。

 

macのファンがうるさいことにイライラ動揺する」ことは、

「まともに作動しないmacやアップル社」、または未来の考えである
「自分の思い通りの時間が奪われること」

が、私の罪悪感、恐れの原因であることにしようとする
ひとつの企てにすぎない。

つまり私の罪悪感、恐れの原因が外側にあり、
私が罪悪感を感じ「させられる」のは、
私がなにかの被害者である証明だと。

そういうことにしてしまおうとするひとつの企てにすぎない。

罪悪感・恐れの真の原因は、
自分で信じたくて信じると決めた
「私が限られたリソースしかもっていなくて、それを奪われてしまう存在だ」
という信念なのにも関わらず。

 


macのファンがうるさいことに動揺する、イライラするっていうことは、
それが私が求めていることに反する時、
価値があって正当化できるように見える。

私が求めている(いた)のは、
外側のあらゆるものが自分の思い通りに作動して、すべてが自分の思い通りになることです。


私はまだ、
自分には限られたリソースしかなくて、それを奪われる存在だと信じているので、

自分が幸せになり、完全になり、平安になるためには、
外側のあらゆるものが自分の思い通りに作動して、すべてが自分の思い通りになることが必要だと考えている。

(これ以上何かが失われたり奪われたりしないために・・・!!ぜんぶ思い通りにならんといけんのんじゃ・・!!!)

 

この不足・欠乏の信念と、
それによって必然的に生じるこの渇望を持ち続けることは、

私にとって心の平安よりも重要なことだろうか???

 

いいえ。

この不足・欠乏の信念と、それとセットになっているあくなき渇望よりも

心の平安を望みます。

 

この世界のすべてのものごとはひとつになって、
私にとっての最善のために働いてくれている。

私が自分の動揺・イライラの原因だと考えていたものは、
まったくそうではなかった。


外側の知覚によって動揺する、イライラする、という選択は、

その真の原因である、
今この瞬間にくだされいてる「分離と欠乏を信じる」という決断と
その決断の力を見ないという選択なんです。


今感じているイライラの原因は過去・未来にあって、
過去・未来の要因によってその結果、今イライラ動揺を感じさせられてるんだと、
そのように見ようとする企てなんです。


今この瞬間、私がなによりもとめるのは平安です。

私は自分にとっての最大の願いである平安とふたたびつながるために、

「私は限られたリソースしかなくて、それを奪われる存在だ」

という信念に疑問を呈し、

「外側のあらゆるものが自分の思い通りに作動して、すべてが自分の思い通りになってくれよ!!」
という欲求を、私の自由意志にもとづいて手放します。

 

心の平安とは、今この瞬間、感謝のなかで下すことのできる決断です。

罪悪感や、結果への恐れを、
今この瞬間感じ続けることができるように見えたのは、
私が過去や未来に今の原因があるという信念にすがりつこうと決めたからでした。

私は自分が過去・未来に与えた意味を手放し、
解放されていて無垢である「今」にたいして心を開きます。


私は今までこの世界にあると思ってきた動揺の原因が、
吟味されることのなかった心のなかの信念と決断だったと認識できたことに感謝します。

私は私自身の平安のために、もう一度決断しました。