まやかし
昨日の勉強会で教えてもらえたこと。
この世界にあしきこと、あしきものを見つけ、
それに向かって指をさすことに
快楽・エクスタシーを感じている。
それを認めること。
「よきこと」「あしきこと」
「善」「悪」
「望ましい」「望ましくない」
そういったものを備えたこの世界そのものが、
内側の罪の感覚をみないためにうつしだしたもの。
情報の統制・欺瞞が「あしきこと」で、欺瞞がなくなることが「よきこと」
人々がその欺瞞にまんまとのっかってしまうのが「あしきこと」で、
欺瞞を見破って目覚めることが「よきこと」
父がワクチンをうたずに平静に生きて、自然に死ぬ、のが「よきこと」で、
父がワクチンをうって障害をもち、炎症で皮膚がやけただれ、ねたきりになってお互い苦しんで死ぬ、が「あしきこと」
このような「違い」に
「これは絶対間違いないじゃろ!」「これは絶対正しいじゃろ!」
と決定的な差をみていたけど、
これらのあいだに違いはなく、
等しく「内側をみないためにうつしだしたもの、まやかし」。
平安へのツールの文章でも何度もみてきた概念であるこの「内側をみないためのまやかし、投影」が、
自分のなかでここまでの強度をもって感じられるものだったとは思ってもみなかった。
「あしき彼ら」を向こう側に置いて糾弾しているあいだは、
そしてその「あしきこと」に対比された「よきこと」を追い求めているあいだは、
内側をみないでいることで、
ずっと半身のままだった。
エティのような、内側のゆたかなものを、内側を見てみつけようとしてもみつけられなかったのは、そういうことなんだと思った。
「あしき彼ら」を外側に置いたままでは、いくら内側を見ても絶対にみつけられない。
(そういえばエティについての本に
「彼女は否定的なものを自分のものではないと自分から切り離すのではなく、吸収することを学んだ。」
とあった。そういうことか、と思った。)
宇宙のどこかに「あしき彼ら」をみつけたいという熱望・欲望。
これが私が人間としてこの世界を見る、この世界に生きる原因になっている。
内側のゆたかさをみつけようとする前に、まずこれをみる必要があった。
そしてその熱望・必要性はどこから生まれているのか。どんな信念から生まれているのか。
これをみていくことができますように。