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駅前で区の広報車がワクチンの宣伝をしていた。
最近はこういう場面でも落ち着いてきてたと思ってたけど、
今日はまた動揺、攻撃がでてきた。
こういう「悪」を、自分こそがあってもらわないと困ると思ってるのか・・
「内側にあると信じている【罪】を、見ないことにする」
という自分自身の決断から、このシーンが現れることをもとめて、これを見ているのか。。
『内側にみたくないから、どうか外側にあってくれーーーー!!!!!!あれよ!!!!
お!!!!あった!!!!!
お前そうだよね?!!!
罪あるものだよね?!!!!
こいつーーー!!!!
お前のせいだ!!お前のせいだ!!!!
やったーーーー!!!!!!』
「内側にあると信じている【罪】を、見ないことにする」
という自分自身の決断。
この決断から、このシーンが現れることを自分こそが求めてるんだ、と思い出そうとしたとき、
自分がこの決断をした場所にもどったような感覚があって、
すこし動揺がおさまる感じがした。
そのあと駅のカフェでとなりにおっさんが座ってわけもなくイライラしたとき、
このおっさんにさえ邪悪さをみて、
この「けんた」という何者かを被害者の位置に置きたがっていることにきづいた。
そのときもまた、
「内側にあると信じている【罪】を、見ないことにする」
という決断から、
こういう形の動揺を自分こそが求めて、このシーンを見てるんだと思いだそうとしたとき、
被害者だと言い張れる「けんたというキャラ」も含めて
この決断からあらわれたものなんだ、という感じがした。
そうすると、おっさんにたいして感じていた嫌悪感がやわらいで、
エティの本にあった「否定的なものを外に置くのではなく吸収する」感じとか、
おっさんとひとつというような感覚がすこし感じられてきた。
「けんた」の発生以前に
「内側にあると信じている【罪】を、見ないことにする」決断があって、
このけんたというキャラもその決断のもとに作られたもので、
その決断にもとづいて、世界に
『どうか邪悪さよあってくれ!「けんた」を被害者にしてくれ!』
とたのんでいる。
このような決断を自分がしたんだという場所にいれる感じは、
いい感じがした。
この「けんた」発生以前の、肉体以前の決断をする主体という感覚が初めて少し感じられたような。
そしてそのような「内側をみない」という決断をしたのは、
神から離れ、神を頼らずにひとりで問題を解決しようとしたからなのか・・・
というのも感じた。