デリヘル嬢

フランシスの動画をきっかけに
「本当に自分の計画なしで生きることになるのかもしれない」
という感じのかなりヤバイ感覚を覚えた。

そんななか、逆に?なのかよくわからないけど
肉体が恋しい、人肌が恋しいという衝動がわきあがってきて、
初めてデリヘルを呼んでみることにした。
セックスしたい、というよりも、人肌にふれまくりたい、という感覚。

そしてとにかく呼ばないことには次にすすめない、という感覚があった。

ネットでみつけたそれっぽいところとLINEでやりとりしながら、今空いている女性の、顔を隠した写真を送ってくれる。
雰囲気で選んでみたところ、やってきた女性は聞いていた年齢よりずっと上の様子だった。
事前に「OKじゃなかったら気にせず言ってね」と言われていたのと、彼女が「わたしでOK??」と何度も聞いてきたので、思わず「すみません・・(不好意思・・)」と言ってしまった。
だまってうなずいて帰っていった彼女をみて、何か胸が締め付けられるような、本当にごめん、と伝えたいような、愛してると伝えたいような、でもそれとこれとは話が別で困っちゃう・・みたいな苦しい、せつない感覚をおぼえた。

事務の女性から電話がかかってきて、別の女性をおくってもらうことになった。
今度の女性も、会ってみるとやはりかなり厳しい気もしたけど、もうなにか、今日のこのプロセスを前にすすめるしかないというのもあって、OKということでいっしょに部屋に戻った。
女性がかわいくない、というのもあるかもしれないけど、やはりセックスがしたいわけではないとあらためて実感する。
そして、適当にしゃべりながら、くっついて前戯的なことを始めてみても、やっぱりどうもしっくりこない。


このあたりで、「こうして『自分の』欲望をみたそうとすること」の不毛さみたいなものが、つよくつよくどうしようもなくつよく湧き上がってきた。

ああーーー、だめだ。

こうして「自分の」欲望をみたそうとすることってなんて不毛なんだ。
ナッシングだ。ほんとうに無だ。


この、何度も男の部屋まで行って「チェンジ」といわれたり、何人もの男に肉体だけを与えるということを毎日のように繰り返しているであろう目の前の女性。(これも自分のみかたに過ぎないのだろうけど・・)

彼女の本当の姿、真の自己、真の幸せとともにあれない限り、そこでひとつであれない限り、まったくナッシングじゃんか!!
それを無視して「自分の」欲望を満たそうとすることがいかにあわれなことか。

そんな感覚がつよくわきあがってきて、もうそれ以上、前戯的なこともやることができなくなっていった。

そして思いつくままに、彼女にマッサージをしてあげたり、子守唄みたいに抱いてよしよしとしたりしながらすごした。

彼女の真の自己をみれますように、彼女の真の自己とひとつであることを受け入れられますように、といのりながら。

そのようにあることでしか幸せはないという、確信の感覚が感じられてきた。

そして彼女たちに会えたおかげで、この自覚があがってきたことにとても感謝したい思いもあがってきて、日本語で「ありがとう〜、ありがとうございます〜」と言ったりもしていた。

彼女にとってどういう経験だったのかはわからないけど、
わたしがどうあるか、何をみようとするか。というのがすべてだということも教えてもらえた。

この彼女と一緒にいた少しの時間に、自分が相手にたいしてどうあるのか、というのが決定的なことだと教えてもらえた。

「自分の」欲望をみたそうとしている限り、超不毛、ナッシング。なにもない。

同じ内なる真の自己をみたい、それをおもてにあらわしたい、と願っていないかぎり、ひどく不自然で苦しくて虚しい。

そしてこれは仕事をどうやるか?についてもまったく同じだった。

どこか欠乏を感じているところから、なんとかしてお金をどっかから奪ってこないといけない、という前提でやっていたよな、と。「自分の」欲望をみたすために。


あの部屋で凝縮して感じさせてもらった、どうしようもない虚しさ、みじめさ、それと同じことを仕事をとおしてもやってたんじゃないか。


実際の経験・感覚をとおして、大きなものを与えられ、教えられた。