とうとう

Airbnbでの宿選びに失敗し、急遽ゲストハウス的なところに移ることになった。
そこはベッドのあるドミトリースペースと、歓談スペースが壁ひとつでしきられた隣にあって、
歓談スペースでの話し声がもろにベッドに響いてくる。
夜中1〜2時ごろになっても大声でしゃべるのをやめない人たちがいて、
普通なら怒りにふるえてどうしようもなくなるな、という状況があった。

そのとき秘行をやってみると、一瞬で、コントラストが非常にハッキリと、切り替わる感覚があった。

従来の、怒りにふるえる、どうやってこらしめてやろうか、どうやって言いに行ってやろうか、ということにおもいを巡らすモードから、一瞬でカチッと切り替わる。

怒りを正当化したくて、彼らの存在を求めていたのは自分自身のほうなんだという感覚にハッキリと切り替わる。
いてもらわないと困る、という感じ。

そうすると、彼らを責めるなんてことは不可能になって、
この状況を作り出している全体的なうごき?みたいなものを
ただみつめるだけになっていった。

そして次の夜、さらに大きな声でさらに遅い時間まで騒いでいる。
今度は、その日の昼間みたマグダラのマリアの映画のトレーラーの空気感を感じた。

その空気感というのは、
本当に神をもとめるのか、神を選ぶのか、それともこの世界にどっぷりつかったまま、自分の不平不満についていき続けるのか、その選択をするときが来ている、その選択ができるときにきている、という感覚。

自分の不平不満についていってもその先には何の救いもないことはわかっているのに、やめずにここまできた。
本当に神をもとめる、ということの空気感が、あの映画のトレーラーから入ってきたような。

そしてそれを今この瞬間にあてはめることができるような感じだった。
この不平不満を続けるのか、それとも本当に神を求めるのか。
今まで神ということばに抵抗があったけど、そんなこといってられないくらい、
つきつけられているのを感じた。

そしてついに、この世界に生きているようにみえるこの人生のなかで、
本当に神を第一にすることを始めてもいいのだと、
それで失うものは何もないのだということを、受け入れ始めることになるような、
そのゴーサインが感じられた。

ありがとうございます。