完全にまちがっていた。あちゃー。。。。
クリントがヤクルトの応援席で感じたことをシェアしてくださって。
(日本の野球の応援のしかたに感動した、奥に愛があるから応援を続けられるんだよね、といった話)
自分だったら、勝ち負けのある世界を信じているのはまちがいだ、とか、幻想を信じてしまっている状態だ、とか、コースの文脈で「あやまったこと」という自我のジャッジのフィルターをとおしてみていたと思う。
しかも自分自身もしばしばスポーツの勝ち負けにハマってることは棚にあげて。あるいはそんな自分も攻撃しながら。
自分がいままでそういうことをやっていたこと、
そして、
それが、それこそが、まったくまちがった見方だったんだ、ということを教えてもらえた。
いや、本当に、自分はコースとか純粋非二元とかいったことを、まさにジャッジする道具にしていたわ〜〜〜。。。。
ものごころついたときから感じていた「まわりぜんぶへの敵意」。
今わかったのは、その攻撃心に「おすみつき」を与えるためにコースを利用している部分があったということ。
それが、はっきりわかった。
つまり、まわり全部を「幻想をしんじてしまっているまちがったやつら」として攻撃する、そのための錦の御旗にコースを利用していた。
あちゃーーー。。。。。。。
完全にまちがっていたわ。これまで「やってきた」「やれてきた」と思ってきたこと。
そういうんじゃないんやな。。。
「この幻想の世界を否定することで、真理に目覚めていく」ものだと思っていたけど、自分にとっての「この幻想の世界の否定」には、攻撃性がふんだんに、たっぷりと含まれていたな。。。
はは、笑えない。。これ以上ないほどみごとに、攻撃性を保持するトラップにひっかかっていた。
そうやって幻想を「攻撃」するんじゃなくて、なんというか、強すぎる愛の光ですべてをつつみこんでいく、そのなかで自然と実在じゃないものは消え去っていく、そういうイメージなんかな。。
なにか、これまでやってくるなかで、ずっと「否定する必要性」を感じていた気がする。
「幻想を否定する必要性」ということにしていたけど、その実は「攻撃を必要としていた」のだな。
光とか愛とかにはそんな「なにかを否定する必要性」なんて存在しないんやな。
「なにかを否定する必要性がある」ような、そんな狭量なものではないんや。
そうなんやーーー。
はじめて光とか愛のすべてをつつみこんでとかしていくすごさ、途方もないすばらしさへと開かれていく道の端緒につけたような気がする。
本当にありがたい、本当によろこんでその偉大さ広大さ壮大さにあたまをさげたいという感覚も。
今度、クリントに実際に会う機会をあたえてもらえたことに、感謝しかありません。
ありがとうございます。