時間の感覚も投影

ちょっと内側で何かが置き去りにされてるような、
ぴったり焦点があっていないような感覚があって、
ここはinstrument for peaceやったほうがいい感じがした。

 

最近しっかり書いてやるのがおろそかになってたので、しっかり書いてやる。

やはりピントが合ってくる。

 

まず、「〇〇に嫌な気持ちを感じている」というのが、やはり間違いなくあるわけだけど、
それをうやむやにしようとしてたんだな、と気づく。

 

うっすらいやーーな感じがあったとしても、
それらを紛らしたり散らしたりという動きにのっかることが容易にできる。

 

でも、それだとそのいやーな気持ちがずっと維持されることになる。

そんなところに自分をもうこれ以上置き去りにしたくない。
そういう気持ちが強くなった。

 

もう、これ以上そういうのは嫌だ。

なんとなくうっすらいやーーな気持ちを感じてるのに、
それを見ないふりをしたり紛らしたりして時間を使うのはすごくもったいないし、
何より自分自身がかわいそう。

 

自分を救ってあげるために、わたしはちゃんとここに取り組むことにした。

 


題材はいつも繰り返しでてくることだけど、
『〇〇や〇〇は自分と同じようなことをやって10倍以上も稼いでるのに
自分はラチがあかない、を知覚したとき、
痛みを感じる。

 

なぜなら、彼らのようにうまくやれない自分や、すべてがうまくいっている彼らや、
不平等な世界をつくった神が責められるべきで、
未来に、すべてが駄目になってホームレスや貧乏になって老いぼれてバカにされながら生きるしかなくなることを怖れているから。

 

これらのことは、私が神に見捨てられた無価値な存在であることを証明している。

なので私が幸せになり完全になり平安になるためには、
神を含むすべてに打ち勝ち、マウントする必要がある。』

 

私は内側を見ることをさまたげるために、これらのことを知覚している。

 

これらについて、いつにもましてinstrument for peaceのひとつひとつのステップを、
できる限り深く感じながらすすめていった。

 

それでひとつ気づいたことは、
今まで投影というと「この空間的な世界を投影してつくりだしている」というイメージでとらえていたのだけど、
実際には「過去と未来という時間軸にも投影している」というのがリアルに感じられるということだった。

 

本には書いてあったかもしれないけど、実感としてなるほど、、、という感が初めて少し感じられた。

 

「責めるべき、責められるべき過去」「未来への怖れ」として、自分のなかにある
罪悪感や怖れを時間軸上に投影し、その時間軸のなかに自分を閉じ込めている。

 

そのことに、この具体的な事象をとおして気づいていくことができ、
気づいたら、本当に自分が間違ってることを望むことができ、その意志をささげることもできる。

 

なんとなく「当たり前に時間の流れのなかに生きている」という感覚があったけど、
この当たり前のような時間感覚そのもののベースに、
こんなに攻撃心や怖れがあったのか、
というか時間軸・時間感覚は攻撃心や怖れのあらわれそのものだったのか、
というのが驚きだった。


そして時間も自分の投影なんだと感じられると、
「本当の私自身であるスピリチュアルな抽象性」(instrument for peace より)
というのも感じやすくなる気がする。