傲慢さ

エスちゃん、
おれが学んでいる最中で、おれが人に教えることができるんじゃという傲慢さがあったことに気づかせてもらえました。

ほんまにありがとう。

この前ぶつかりあったとき、父がぶつけてきた不満の中に
「ふつういっしょに暮らしとったら、ニュースについてとかもっといっしょに話したりできるもんじゃろ」
というのがあった。

そのときは言わんかったけど、おれはコースでいわれとるような見方を学んどる最中じゃけえ、
あんたがしとるみたいにニュースの話をして不平不満を述べたりしとうないんじゃ、という思いが内側にあることに気づいとった。


今日また父がニュースを見ながら激しく不平不満を叫んでいて、
「ああまたじゃ。おれは何も言えねー」モードになって、
ああ、どうしたもんか・・困ったなあ、と感じとったんじゃけど、

そのときふと奇跡講座の下巻(ワークブックとマニュアルなどが掲載されてる方)を手にとって、最初のレッスンからパラパラとめくりながら思ったんじゃ。

この最初らへんのレッスンを実際に父に見せながら、
「おれはこういう見方を受け入れたいと思っとるけえ、あんたが期待しとるようなニュースについての会話はしとうないんじゃ」
という話はできるんかな、と。

最初らへんのレッスンはわりと言葉としても理解しやすいじゃろうし。

 

たずねるとそれでええような感じがしたけえ、
奇跡講座の下巻をもって父のいるダイニングテーブルに戻った。

そのときは、ガンガン流れとるTVのニュースショーの音声が気になって、
「話がしたいけえTV消してもええかたのもうか・・」
という思いがあったんじゃけど、
内側にたずねたら、いや、このままでええ、という感じがしたんじゃ。

ほいでコーヒーを入れて、座ってパラパラと本をめくり始めた。

TVからは北朝鮮がどうとか韓国がどうとかコロナがどうとか、アナウンサーやコメンテーターの言葉がガンガン流れよる。
目の前の父はそれにたいして不平不満を叫びよる。

そういうなかで
パラパラとレッスン1からずっと見ていっとると、
なんともいえん初めての感覚を感じ始めた。

ああ、おれぜんぜんレッスンの内容身についてないやんけ。

こういうTVの音声とかがない静寂な環境の中で
できとったような気になっとっただけやんけ。

こういう知覚のなかでこそ、
ほんとうにこの見方を自分ができとるんかできとらんのか、
この見方を受け入れたいんか受け入れとうないんか、
すげえはっきりするんじゃの・・・
という今までにないはっきりした感覚を感じ始めた。

ほいで
こんな状態で父に教えようみたいな態度をもっとったことがすげえ恥ずかしゅうなった。

ぜんぜんできとらんし、
何ならわし父とまったく変わりないやんけ、と感じた。

これについて父に話そうとかいうのは消えとった。


ほいで、こういう知覚のなかでこそ、
本当にここに書かれていることの真実性や力が感じられるんじゃな。。とも感じとった。

コースが山奥で瞑想中の聖者にではなくて、
喧騒にみちたニューヨークで働いとる人間をとおしてもたらされたことの意味みたいなのを感じとった。
(この話はどっかでよんだ記憶があるけど、その意味・意義みたいなものが実際に感じられた)

ああ、
この中でやっていくやんな。
この今自分がおる場所からやっていけばええんやな。
今目の前におる人といっしょに。


ぜんぜんできとらんかったこと、
にもかかわらずすげえ傲慢になっとったこと、
ここからやっていくしかないんやということ、
ここからやっていくことができるんじゃということ、
教えてくれてありがとう。


あと、
レッスンをずーっと読みながら、
あんたはほんまに手取り足取り思考を導いてくれとるんじゃな。。
とも感じられた。
それを受け取ろうと思いさえすれば。

レッスンについて、
「信じんでもええから、まあやってみいや」って
あんたは言ってくれとったよな。

そうしたいと思うわ。