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こうしてブログを書くことについて、自分で見方を制限したり、起こったことを自分の観点で固定させてしまうんじゃないかという疑念がある。
自分の知覚のなかでは、
特に今月頭のれいさん、じゅんこさんとの関わりをとおして
自分がいかにハリボテでスカスカの自分像をたよりに生きてきたのかをあらわにしてもらえたような感覚があって、
ホッとしている。
ひろゆきさんの勉強会のときにのりこさんが言っていた、
「誰もわたしが神の愛を全面的に受け入れるのを邪魔してない、妨害してないよ」
という話は、本当にそうなんだな、と感じた。
この話はうれしく感じたし、二人とのやりとりのなかで追い込まれたと感じたときにすがっていた、「どんなに知覚がひどいと思えても、私だけに問題がある。だからこそ、救いの可能性がある・・」という感覚ともつながる感じがした。
最初はれいさんとのやりとりのなかで、自分の見方や自分の感じ方こそが正しいんだ、という絶対的な言い張りがあるなかで、れいさんにたいしてお前は間違っているという攻撃を思う存分向けるということがあった。
子供のけんかみたいに、思い切りやらせてもらえた。
そのたぶん次の日、
自分が正しいと信じていた「自分の感覚・感じ方」が、実際には兄弟の癒やしを妨げていたと指摘されて、超絶恥と怒りを感じた。
そのたぶんまた次の日、れいさんへの不信感からこころを開きたくないというのがあったのに、それを隠しながられいさんじゅんこさんとミーティングしたときに、二人から何か隠しているように感じる(というニュアンス)のことを言われて、いたたまれなくなった。
「心のなかを打ち明けることがこの道においては良いこと」なのに、それをできない、するつもりがない、ダメダメな自分を感じた。
さらにそんな「閉じた、こころを開くつもりがないダメな存在」であるオレをあわれむような言動をされていると感じて、なさけなさと恥ずかしさを感じた。
その場は閉じたままでしかいることができなかったけど、そのミーティングの目的だったファンクションをいっしょにやらない感じはしなかったので、そのままいっしょに続けさせてもらった。
ファンクションが一段落ついたとき、そのときできる限りの打ち明けをさせてもらいたいと感じられてきて、れいさん・ファンクションに参加していた皆にお願いした。
そしてその日の夜、そのときできる限りだけだったけど、打ち明けをさせてもらえた。
そのまた後日、
ラファエルからファンクションについての連絡が入り、これはれいさんと連絡をとる必要があるやつだ、と思ったけど、どうしてもれいさんとコミュニケーション取りたくないというのがあった。
もやもやした抵抗があって、
どんな思考があるのかはっきりさせたいと感じて、
ひとりで平安へのツールの準備ワークをやってみた。
その結果は、とてもよかった。
自分のなかにあった思考をはっきりそのときできる限りあらわにさせてもらえた感じがして、ホッとした。
そしてれいさんに連絡して、エクスプレッションもさせてもらえた。
もうどうしようもない感じだった。
自分のなかにはこういう思考と感情があります。
それをそのときできる限りさらすことしかできない。
それだけだな、と感じていて、
それをただただ聞いてもらえるというのはありがたくて、同時にホッとする感じもあった。
ここまで書けると思えなかったけど、書けたので書いてみました。