吐き気がするような無価値感、絶望感、恐れ

吐き気がするような無価値感、絶望感、恐れを感じる。

昨日のトリガーは、こうすけさんと話すなかででてきたこと。

そして今日は、今度「社会的にめちゃくちゃ価値のある人たち」と話す場に参加することになりそうなことについて。

それと税務署からの通知があったとの知らせ。(自分のなかで最悪の事態を想像していて、絶望感と恐怖を感じる。)

 

 


昨日はこうすけさんと会うことになっていた。

(この前勉強会の前に「この時間を通して、愛への障壁が最大限取り除かれますように」と祈ったとき、今までずっと、こういう誰かとあったり勉強会に参加したり日常をすごしたり、毎日の時間をすごすにあたって、
自分の想定の内で時間がすぎるように、
自己概念を維持したままこの時間を終わらせように、
と時間を扱ってたんやな、と感じていた。

そういうのを維持しようとするのをやめて、最大限癒やしが起こるようにと祈りたかった。

こうすけさんと会う前にもそのように祈った。)

 

トリガーは、
自分の仕事ぶり・生活ぶりについて
「自分がこれほどまでに聖霊から奇跡を与えられとるのにも関わらず、それを無駄にしとる」
ということをこうすけさんとの会話のなかで認識させられた、指摘された、という知覚。

「この道」において
完全にダメダメで恵みや恩寵を無駄にしとる、
完全に間違っていて罪がある、無価値だ、という自分へのジャッジ。


具体的には、
仕事において非常に恵まれた出会いや状況が続いていて、
ほとんどこちらから何か仕掛けることに時間を費やさなくても、これまで生きるのに十分な収入が得られているという状況が与えられている。(たとえ一寸先はわからなくても)

そのおかげでファンクションに時間を割けるというのもあるけど、
同時にそうやって与えられとる時間やお金を、
カープの記事検索やオナニーやメンズエステにも費やしとる。

聖霊から与えられたものをムダにしとる。


そのようにこうすけさんに指摘されたという知覚がおこって、
吐き気がするような無価値感・罪悪感に触れることになった。

(以前こうすけさんに「口臭がくさい」と言われたときのことを思い出したけど、
これまでに経験させてもらってきたことのおかげさまか、今回は前ほど投影や防衛に走らずにいれた感じがする。)

でも無価値感に触れられたことについては、どういうわけかありがたいという感覚もわいてきた。

 

 

今日、あすかちゃんがブログに書いてくれていたおかげで、
自分にもう一度思い出させることができた。

吐き気がするような無価値感、罪悪感、恐れ。

自分自身の中にこれを感じるのを必要としとる部分があるということ。


それを思い出せたときは、その「自分」はこのけんたというキャラじゃなくて、
その奥底で感じとる無価値感を本物だと正当化するために
けんたというキャラもふくめた諸々を映し出して経験しとる「こころ」なんじゃと感じられてくる。


そしてその上で、これらやっとるように見えること(ほんまはできとらん??)をぜんぶまるごと認めた上でも、
無条件に降り注がれている神の愛を受け取ることに同意する

=自分で自分に慈しみを与える

ということもできる。


(この「罪深さ」を認識した上ではなかなか難しく感じるけど。。
でもそれくらい「これは間違いなく罪深いやろ!!」「罪やろ!!」という「自分の尺度」ではない尺度で、愛というのは降り注がれとるんかもしれん)


この吐き気がするような無価値感に触れられるのはありがたい感じがする。
今まで水のなかで足が届かんといってもがいとったところに、
こころの奥底に足が届いて足をつけることができるような感覚。

そしてその上で、自分の「だめさ加減」にまつわる思考感情をすべて認めた上でも、
それでも自分に慈しみを与えることができる、神からの愛を受け取ることに同意できるというのもすごくありがたい。

そのようにしていきたい。


そして今まで中毒的に使ってきた時間の使い方について、
なんか意識がより繊細に、クリアになったような感覚もした。

本当に今この瞬間、目覚める気があるんか?ないんか?

その問いに以前より焦点を合わせやすくなったような。

 


さっきfacebookでさおちゃんがシェアしてくれていた、
日本語字幕つきのデイヴィッドとフランセスの動画を見ていた。

その終わりのほうで言われていたこと・・

ジーザスは言う。
「過ぎ去るものか、永遠に存続するものか」
「一時的なものか、永遠のものか」
「有限のものか、無限のものか」

とくに税務署からの通知に感じていた恐れについて、
「過ぎ去るものであろうとするのか、永遠に存続するものを求めるのか」
というのが助けになる感覚があった。

今、どちらを求めるのか。

 

 

 

 

 

神の愛しか存在しない

勉強会の前に、
よくやる祈り

「わたしは真にたすけとなるためだけにここにいる。・・・」(奇跡講座2章.セクションV.18:2-6)

というのを祈った。

そのあと、これも祈りたいと感じて、

「この勉強会の時間で、わたしのなかにある愛に対する障壁が、今できる限り最大限取り除かれますように」

と祈った。

ありがとうございます。

祈りのこたえをすぐに与えてもらえたように感じた。



録画を何度も聞き直したいと思う。

のりこさんが話してくださった聖霊のことばのすべてがありがたすぎた。


噴出する肉欲。

わたしは神の愛をこうして歪んだかたちにして求めようとしてる。

それは悪いことではないし、罪でもない。


だから聖霊といっしょに、

セルフハグして神の愛を今できる限り受け取りながら、

本当は神の愛を求めていて、
それを歪めてこういうかたちにしてるんだと思い出しながら、

隠さず完全にできる限り存分に浮上させて、
そこにそういう形であると歪めて求めている、神の愛を最大限受け取りきる。

そして自分が本当に求めている神の愛を、
こういう形に歪めて受け取ろうとしとるんじゃともう一度思い出す。


これに限らず、
すべてが、
自分を含むすべての人のすべての罪のようにみえることすら、
神の愛を歪んだかたちで求めようとしとるだけなんや。


どういうわけか、

「神の愛しかないんだーーー!!!!!!」

と、こころが歓喜しているのを感じる。

神の愛でないものは存在してないんだ、、というよろこび。

 

神の愛ではないうしろめたい快楽を隠し持っていて、
それを神から隠し続けないといけない、、、

とやってたんだな。

 

でも神はそこにも完全に罪をみていない。

カースティンとフランセスにそのように言われても、
自分がそれをまったく受け入れていなかった。

「罪あり」という領域にキープしておきたかった。


その欲望欲求をあますことなく浮上させながら、
本当にそこにも罪はないんだということを、
聖霊といっしょに見ていきたい。


本当に、神の愛しか存在しない。

 

 

自分への慈しみ

じゅんこさんの回の勉強会で教えてもらえたこと。

神はよくやってるね、としか言わない。

まだまだだよ、とか、もっと努力せんといけんよ、とかは絶対にいわない。

わたしを慈しんでいて、愛を受け取って欲しいと思っている。


その神の意志に一致して
自分でも自分自身を慈しみ、自分自身が愛を受け取ることに同意すること。


自分ではぜんぜんやれてなかった。


今回試しにやってみると、何か自分を満たすものが入ってくるのを感じた。


そして
その満たすものが、「ない!ない!」っていっていう欠乏感から中毒に走ってたんだな、と感じた。
中毒=自分なりの(自我の)救済計画、攻撃の必要性、外側に攻撃対象を見る必要性に。

 

自分が自分に慈しみを与え、
すでに与えられている神の愛を受け取ることに同意すること。

そのなかで安らうことを自分にゆるすこと。

これがあらゆる中毒をやめていく鍵になるような感じがした。

 

そして、次の日あすかちゃんとこれについて話してるときに、
このこっぱずかしくてやりとうないこと(セルフハグして自分自身を慈しむこと)が、
実はかなり決定的なことなんでは!?という感じがしてきた。

これをせんということは、
これをせんままこの道を歩もうとするということは、

のりこさんが言っていた通り、
(わたしを慈しみ、愛を受け取ってほしいと思っとる)神の意志に反対し続けたまま、「救われよう救われよう」と自分の力であがこうとすることにしかならんということ。

ブレーキを踏みつつアクセルを踏みこむみたいな。

不可能なことをやろうとしとることになるんじゃないか。


これをせんということは、
自分を慈しまず、神の愛を受け取ろうとせんまま、
自分独自の力、自分独自の気づき、自分独自のノウハウ、自分独自の分析でなんとか救いに到達しようとしとることになる。

自分で自分を慈しむというのはそれとは全然違っとって、
自分独自のものではない、神からの愛、自分が何もしなくてもふんだんに与えられとる神からの愛をただ自分にゆるすということ。

「自分独自の手応え」みたいなものは何もない。

ただ与えられとるものを受け取るだけ。


これを自分にゆるすことは、ひとつだということに戻っていくこと。

これを自分にゆるさんってことは、引き続き分離方向へ向かって必死で漕ぎ続けること。

それくらい決定的な方向性の違いの現れなんじゃないかと思った。

セルフハグしながら自分を慈しむことをゆるすか、ゆるさんかということは。

 

 

ガイダンスは愛

ここ何回かの勉強会や、5月のギャザリングが本当にたすけになっていて、
ガイダンスやファンクションとは何なのか、教えてもらえてきているように感じています。

それについての今のメモ。

ーーーーーーーーーーーーーー

今何を感じているか?

完全な愛以外の何を感じていたとしても完全にOKで、それに気づいて、
「自分のなかのどこかのレベルでは、この愛ではない感覚を自分自身が必要として求めていて、これを経験している」ことを思い出す。

究極的には、自分の望み・欲求の結果としてこれを経験している。
神の子である「わたし」は、絶対に被害者ではありえない。


そしてこの「愛ではない経験」には愛からのたすけが今この瞬間に与えられている。
それがガイダンス(ファンクション)。
ガイダンスが愛。
恐れを癒やすのは愛。

それがどういうことなのか、どうやってここから救い出されるのかは、
この狂った知覚のなかにいる私の尺度では測れない、わからない。

それでも、わからなくても、そのガイダンスにしたがっているうちに、
どういうわけか、いつのまにか
以前はあった恐れが消えていることに気づいたりする。

恐れは愛(=ガイダンス・ファンクション)によって癒やされる。

そのように導かれている。

 

 

ガイダンスは
それに正しく従わないと罰されたり失敗者の烙印を押されたりするようなテストみたいなものではない。

ガイダンスは、神の子を幻想(狂った知覚)から救い出すために毎瞬注がれている愛そのもの。

 

 

 

 

罪を犯したという信念

主よ

わたしは罪を犯したと信じています。

自分の仕事のことで。

これを浮上させる機会をありがとうございます。

これから逃げずに、あなたと一緒にこの中に入って通り抜けていきたいです。

その上で祈る、「私は真に助けとなるためだけにここにいる」

自分の罪を信じてると認めた上で。

すると今までは自分の尺度による「助けとなる」というイメージをまだまだたくさん持っていたことに気づいた。

罪のないええ感じの自分が何らかの形で助けになり得るんだ、みたいなイメージをもっていたことに。

カマトトぶりながら。

それが、
この「罪ありと信じている自分」がどう助けになろうとしたところで、自分の尺度のなかではそんなの不可能でしかありえないと感じられてきた。

どういった形で助けになれるなんていうんだ!

その形もさっぱりわかりません。

ですからこの祈りの言葉を、完全にあなたにまかせ、捧げます。

私は自分の罪を信じてしまっている。

罪がないなんてこと、私にはわからない。

ですからあなたに尋ねます。

本当はなんなのか。

 

仕事のことで感じた、自分に罪があるという信念。

これがきっかけで、外側に向けようとしてきた罪(ワクチンやコロナ騒動、カープなど)を、

自分自身のなかにある罪(という信念)として見れるのは恩寵だと感じた。

罪を内側にみてることに気づいているとき、外側のワクチンやカープに注意を向けるのがいかに欺瞞であるのかが感じられる。

ありがたい。

少し大人になったような。笑

そしてこの罪の信念が自分の内側にあるのを認めた上で、主に祈る。

これについて本当のことを教えて下さい。

ちなみにカマトトをやめると、 外側の何かに向けているこうであってほしい、こうあるべきだ、という要求が取り下げられる感覚があって、 この世界の振る舞いにおいても自由度が上がる感覚があった。

ありがとうございます。

 

 

 

外に憎しみを向ける必要性

ラファエルの返信をみたとき、一瞬にして「上から見下されている」という知覚解釈が起こって怒りがわいた。

それについてはどうしたものかと思いながらそのままにしていた。


その後、リアルタイムで勉強会を聞いていると、
のりこさんがラファエルに「I hate you」と打ち明けたときにお互いゆるんだという話がでた。

その話を聞いたとき、
自分のなかにラファエルを憎んでいる部分、憎しみをぶつけている部分があったこと、
そしてそれに触れないように気づかないようにしていたことに気づいた。

それに気づいて認めることが、すごーーーーーーい広がりの感覚をもたらしてくれた。

どこまでも広がれるんだ、という感じ。

何も押さえつける必要はないんだという感覚。

その憎しみに触れずに隠している間は感じられなかった広がりと自由の感覚を感じた。

 

そしてこの憎しみを抱いている部分も、
やむをえずそうなっていたり、その憎しみが私に降り掛かっているわけではなくて、
わたしがそういうもの(憎しみを外側に向けること)を必要としてこのような経験をしている・・・

・・ということに思いを馳せてると、どういわけか、
ラファエルだけでなく、
世界全体に見ているその必要性(憎しみや攻撃の対象を必要としていて、それをもとめて世界をみてること)がありありと感じられてきた。

ああ、こんな知覚からはほんまに自分では出ようがないわ、出口がわからんわ!
と感じた。

こっから出るためにガイダンスが与えられていて、
だから毎瞬きくしかないっていうことなんじゃの、、と思った。

 

 

ラファエルに長いメッセージを送ったあと、反応がないことに動揺を感じた。
以前よくあったような、馴染み深い感じの動揺。

これはラファエルをとおしてあらわれるスピリットに、
自分の失敗、いたらなさ、あやまち(罪)を「見通されている」ことへの恐怖だというふうに感じたけど、

見通されてるだけで、別になにも攻撃されているわけではない、と思い至ったとき、
この動揺はこちらからスピリットに攻撃を仕掛けてるだけのことなのか・・と感じた。

 

あと、
「どうにかこうにか道を歩んでいるように見えても、結局最後はスピリットに罠をしかけられて決定的なダメ出しされるんや!もう嫌や!」
という青森のときと同じような感じも感じられた。

けど、これもコロナ騒動について教えてもらったように、
こういうのを自分が必要としていて外側に見たいと思ってこういうのを見てるんやという感じがした。

スピリットに近づいていっても、ちゃんとそこから逃げて引き返せるように、
こういう経験を自分が求めて用意しとる。

 

そして今は何よりも、どんな感情・動揺が上がってきても、
それにたいするこたえ・解決(どうやって解決されるのか自分にはわからなくても)が
ガイダンスやファンクションというかたちで与えられていると信頼できて、
そこに耳を傾ける選択ができると感じられるのがありがたい。

 

そしてどんな感情・動揺を通り抜けることになろうと、
「俺は目覚めるんだ!自分は被害者にはならいない!」
という強い意志が内側にあることを確認することができる。


そしてやっぱり、
たとえばラファエルがいい感じの反応をくれて、
人間としてのラファエルとけんたの良い関係を作っていくとかには意味がなさすぎるというのも感じられてきて、
この感覚が救いのように感じた。

 

神・スピリットとの関係、神・スピリットがすべてだ、

私たちは人間として存在してない、人間としては映し出されただけのものだ、

ということを覚えていたい。

そしてあらゆる恐れや闇の感情を仲間たちと力強く通り抜けていきたい。