壮大なでっちあげやな

レッスン34
I could see peace instead of this.

「I can じゃなくて I could なんや〜」と気がついて、

文法とかはわからんけど

「すでに完全な平安は達成されているんやで」
「平安のかわりに見ているようにみえる目の前のこれは、すべて過去にすぎないんやで」

というようなイメージがわいてきて、
このレッスンがより深く入ってくる感覚があった。

そのことについてメッセンジャーでコメントすると、
「文法的に正しいのはこういうこと」
というコメントがどんどん入ってきていた。

それをみて「うっ」と違和感を感じて、その違和感をよくよくみていくと、

 

「お前のうちがわの感覚なんかどうでもいいんや。
外側のこれがただしいというルールが全てなんや」


というかんじの、
「外側の、世界のただしさによって、内面の感覚が殺されること」への怒りが
内側で激しくゴーゴーと燃えたぎっているのが感じられてきた。

 

ああ、なるほどな〜!!

この怒りはすげー。

 

そしてこれも自己概念BとCにすぎないこともみえてきた。
さっきの流れでいうと、
「内側でこういうふうに感じた、という、純粋無垢な感覚」が自己概念Bで、
「文法的に、英語として、世の中的に、常識として、【正しい】のはこれ」
が自己概念C。
この
「外側の【ただしさ】」によって「内側の無垢な感覚」がギッタギタにされて、
とてつもない怒りを正当化するという演劇をつくっていた。

 

そういう意味では、宇宙の法則や世の中のあらゆる「これが真実で、ただしい」ということも、(個人レベルの私ではない)決断の主体としての「私」が、攻撃を正当化するためにつくりだしたのか!という感じもしてきた。

文法の正しささえ、攻撃のために使われうる。というかそのためにつくった「正しさ」?

God is.しかないんであれば、
それ以外のすべての事象は攻撃のために使われうる(そもそもそのためにつくられた?)ということに注意をしておいたほうがいいのかな、と感じた。

攻撃のためにつくったからこそ、聖霊にそうじゃない使い方で使ってもらえるよう祈るしかないんかな。

(それと同じく、「内側の無垢なる感覚」「こう感じたんだ!」みたいな主張も、自己概念Bとして攻撃を正当化する材料として使われがちなのか、、)


そしてもういっこ気づいたのは、ものごころついたときからの
「まわりは皆敵で、攻略していくべき対象としてみていた」というあり方について。

これを別の言い方でいうと、
「わかったよ!じゃあお前らがいう【正しさ】そのままに生きてやるよ。
オレの内なる感覚なんてどうでもいいものなんだろ!じゃあそのようにして生きてやるよ!」
という態度だったんだな、と。
内面を殺して「外側の正しさ」を生きることによって、自己概念BとCによる怒り攻撃憎しみ再生工場を稼働させ続けてきた。

ちょっと感じた違和感でも、深くみていくと暴かれるものがある。
ありがとうございます。