攻撃性
自分のなかでの変化にともなって、facebookでも何らかのものを表現したほうがいいように感じて、投稿してみた。
それで見えてきたこと。
今回の投稿は、「いくら金やゆたかさを手に入れても、だから何?」という疑問についての話から、コースについて話したものだった。
これはfacebookとかでつながっているような人たちに向けて、「いつかこれをうったえてやりたい」という思いをもっていた話だった。
そしてそこには「この世的な価値観や、それに従って生きているようにみえる人たち」にたいする攻撃心があったのがはっきりと見えた。
ああーーー、、、、。。。
投稿してみて、何かスッキリしなかったのはこれだった。
こういう「あやまり」を「罪」としたいこころの動きがあるよね。。
そして自分がマウントをとりたいという。
この攻撃性はすべて自分のものなのだということをはっきりとみつめるしかない。
外側の、この世界でいろいろやっているように見える人たちに向けている敵意や攻撃性は、彼らの「罪」にともなって発生したもので、正当化されているものなんだ、ということにしたいこころのうごき。
自分の攻撃性を「外部の罪に由来して発生したもの」として正当化しようという動き。
ここで、先日Aすかさんがブログに書いてくださっていたレッスンの言葉をあてはめたくなった。
「聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。
私はあなたをキリストのまなざしで見て、
あなたの中に私自身の完璧な無罪性を見たいのです。」
何人か思い浮かんだ人たちにこれをあてはめてみると、ひとつになってぐーっと救いあげられる感じがする。
本当に多くのすべての世界中の人たちに、これをあてはめないといけない。
ほんとうに、ほんのすこしでも攻撃性を自分のなかに持ちづづけて、それをほんの少しでもみないで隠したままでいる限り、平安を感じることはできない。
この妥協なさ、「ちょっと妊娠するみたく、ちょっとゆるすというのはありえない」ということ、ゆるしの完全性みたいなものを教えてもらえた。