Mary Magdalene

 

マグダラのマリアの映画をみて。
マリアはイエスの証人・目撃者だった。
エスがいかに真理を体現したとしても、証人がいなければ、目撃者がいなければ、何の意味もない。

そして、マリアという目撃者がいるということが、今の自分にとってすごい救いになるという感じがした。
目撃者・証人がいて、はじめてイエスの存在がこの世界にとって意味をもつ。

磔にされているイエスのことをまっすぐみつめるマリアのシーンで、
なぜかわからないけど声をあげて笑けるということが起こった。
そのあとのいくつかのマリアのシーンでも、同じように笑けてきた。

まだうまく言葉にできないけど、ああ、こんなふうに救われてるんだな、この瞬間に、という感じ。

そして最近不信や疑い、分離が浮上してきている自分という人間はユダだな、というのも感じた。ユダは自分がよかれと思うことをやった。
最後のへんのマリアが他の使徒たちにイエスの復活を告げるシーンをみたときに、マリアの目撃のなかで、ユダが完全に愛されていること、あがってくる不信や疑いについてどうこうする必要も、ただしい信仰者になろうとする必要も、そんな自分を責める必要も、誰かにわかってもらおうとする必要も、本当になにもする必要がないこともつよく感じられた。

ほんとうにこのマリアの存在が救いだ。

このマリアがいてくれるおかげで、マリアの視線、目撃のおかげで、今この瞬間あがってくるものを、本当になんのジャッジもなく、それにたいして自分で何らかの方向付けをしようという動きもなく、ただみていくことができる。

自分で何の方向付けをしようという動きもなく見ることで、より深く深くみていくことができる。

ありがとうございます。