この知覚・信念・欲望にはゆるしが必要だ。でもゆるし方がわからないからガイダンスを尋ねる。

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ラファエルといっしょに初めて撮影チームの活動に参加させてもらったとき、その間じゅう、自分にたいして何かゆるいものを感じていた。

そして帰りのデニーズでラファエルからの問いかけに返答するなかで、
いかに自分が「オレがうまいことやってやろう」というモードのなかにしかいなかったのかをこれ以上なく直接的につきつけられたのを感じた。

同時に、そのあり方がまったくの無であることもつきつけられて、
自分という人間の力動のスイッチが切られたみたいになって、
なにもしゃべれない、考えられない、動けないみたいになってしまった。

ほんとうに、ほんっとうに、何事かをわかっている、わかりながらうまくやれていたと思っていた自分はまったくなにひとつわかっていなかったんだということをつきつけられた。

帰り道は、自分は目の前のことも誰のこともなにひとつわかっていないんだ!という言葉を内側で繰り返しながら、運動記憶だけを頼りに運転して帰った。

それからはもう毎日起きているあいだじゅう、
「I do know nothing」私はまさになにひとつ知らない・わかっていない、ということを内側で自分に教える日々だった。

こうするなかで、「自分でやろうとしていた自分」が弱まっていったように見えていたけど、しばらくすると今度は「自分は何も知らないと教える」ことにしがみついて、そこで閉じようとする自分が浮上してきているのに気づいた。

この時点では、やはり聖霊とかイエスに聞くよりも、「自分で自分にお前はなにもわかっていないと教える」ことにしがみついていたと思う。

この状態に風穴をあけるきっかけになったのが、
Tっちゃんがラファエルにしてくれた質問だった。

「自分はゆるしからコースに入ったのだけど、ラファエルはつねに祈り、たずねているように見える。いつからそうなったの?」といったような質問だったと思う。ゆるしといのりの関係性について。

それにたいしてラファエルはとても長いこたえを返してくれた。

 

そのなかで「ゆるしとは、分離という知覚が癒やされることだ」という話があり、そしてとくに突き刺さったのが
「ゆるしが必要なのはわかっていても、(分離を信じているエゴと同一化している、分離の世界に生きている)僕たちはどうすればゆるせるのかがわからない。だから祈ってガイダンスをもとめるんだよ」
という話。

これがぐさっと来て、今まで「ガイダンスをたずねる理由」みたいなものが弱くてたずねることが継続しなかったのが、
「この世界に生きていると信じている僕たちにはどうすればゆるせるかがわからない。(←考えてみれば当然だ。。)だからガイダンスをもとめるんだ」
という、
「ガイダンスをもとめることの必要性・必然性」みたいなものがぐさっと突き刺さった。

デニーズでの一件以来、「自分には何もわかっていない」と言い聞かせてきたけど、
これは「どうすればゆるせるのかがわからない。どうすれば自分がみている、この100%よろこびではない世界の様々なものをゆるせるのかがわからない」ということだったんだ。

「ゆるしを必要としているたくさんの具体的な状況、シチュエーション、信念、欲望などがある。それらは分離を肯定していて、完全なよろこびを阻害しているので、ゆるしが必要だ。
でもこの世界に生きていると信じている自分には、どうすればそれらをゆるせるのかがわからない。
だからこの時間軸を超えたところからみている存在にたいしていのり、ガイダンスを受けとる必要がある」

このことが腑に落ちた。

そしてこれまでになく、「たずねる」ことに抵抗がなくなってきた。

目の前を見れば、ゆるしを必要としている「100%よろこびではない状況」はいくらでもある。
そしてどうすればゆるせるのか自分ではわからない以上、たずねるしかない。

 

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今日、こんなことを思いながら三崎口にやってきて、
ラファエルと会ったときに感じる緊張感についてみていくことができた。

「わたしはこの恐れを感じている状況をゆるしたいけど、わたしにはゆるし方はわかりません。だから教えてください」
と祈りながらだと、よりくわしく「この恐れを感じている状況」をみていくことができた。

みえてきたのは、
自分のなかの「自分には罪がある」と信じている部分が、ラファエルのことを「無罪性・無垢性の象徴」としてみていると。
そして同時に、その部分にとってみれば「地獄からの使者」でもあると。
罪があることが正しい世界に生きていると信じているその部分からすると、無罪性のシンボルであるラファエルはまさに世界を破壊する地獄からの使者にしかみえない。
そのことに安全を脅かされる感じがして恐怖を感じているんだと。

そういう話をラファエルにした。

すると、そういうのは典型的なエゴのあり方で、自分にもそういう部分はあると。
自分とケンタの違いはプラクティスだけだと。
ラクティス。マインドトレーニング。

例のデイビッドの「心のレベル」(同心円状のやつ)を使って、具体的な状況から根本的な信念・欲望をみつけていく。
そしてそこに行き着いたらもうあなたの役割は大きいものではない。
それを自分でどうにかすることはできないし、する必要もない。

そこで必要なのは「私は間違っていたい」という小さな意欲をもって、
それを聖霊に差し出すこと。そして訂正してもらうこと。

これは「自分にはゆるし方はわからないので、ガイダンスをもとめる」ことと同じ。

このプロセスは、文字通りあらゆる特定の瞬間、あらゆる具体的なシチュエーションでプラクティスできる。

なぜなら必ず投影されているから。それがこの世界だから。

それをやっているかどうかの違いだけだと。

これは筋肉みたいなもので、トレーニングによって自然なものにしていくことができる。

ユタのコミュニティではみんなこのプロセスを一日に何十回と繰り返し、それが自然になるまで繰り返すそうだ。

ラファエルもこれが自然になっていて、つねにガイダンスをもとめ、従うということをやっているので、「退屈というものがありえない」と教えてくれた。

よろこびのなかにいるか、もしいないのであればヒーリングの機会を与えられているか、そのどちらかでしかない。なのでジェットコースターのようにつねにつねにいきいきとしたいのちが感じられると。

自我が「過去」と「未来」がある前提で自我自身を維持していこうとしている状態とは真反対だな。。と感じた。

毎瞬がよろこびかヒーリングの機会でしかなくなるよう、こころの筋肉を鍛えることができると教えてもらえたこと、そのあり方の可能性をかいまみさせてもらえたことがとてもありがたい。

ありがとうございます。