主よ、私をあなたの道具としてお使いください(*^▽^*)

朝起きて、両替のために銀行へ。
かなりエクスパンションがない状態。
おまけに最初入った銀行では「確認するから15分ほど待て」といわれて待っていたあげく、「この金額はうちでは無理」といわれてイライラの種がまかれたのを自覚する。

 

でも今回はなぜか、この怒りにのっていくのは時間の無駄だという感覚が強くて、怒りにのっていくという選択にはならなかった。

 

そしてたんたんと別の銀行へ。
今度は32人待ちで一瞬ゲッとなる。
そんな中、エクスパンションもなかった中で、ふとあのデイヴィッドの動画「痛みを機会とみなす」の内容を読みたくなって、スマホyoutubeの文字起こしを開いて読み始めた。

すると、この動画で話されているひととおりのデイヴィッドの言葉が、今必要なすべてを与えてくれていることに気づいた。

 

これは・・・すごい。

 

あんなふうに適当にしゃべってるように見えて、こんなにも完璧な内容だなんて。
しかもこれ、最初の誰かの質問にたいする回答ということに一応なってるのだけど、回答のレベルが人間レベルを越えてると感じる。
人間としてあの質問に答えようと思ったら、絶対こんな内容にはならんよな。。

 

そのときに響いてきた内容と言葉。

 

「体験というのは霊性の内へと深まっていくべきであり・・」
「愛と、”愛への呼びかけ”に、もっともっと気づくようになります。
痛みは、まぎれもなく”愛を求める呼びかけ”です」
「痛みとは実際、そのすぐ下にあるものへの強い呼びかけなのです」
「自分の心の状態は決断次第」
「ああ!ここに自分が真に理解し経験するべきものがあるんだな」

 

「何らかの苦痛や動揺、不快感を感じるときはいつでも、
その解決策となる体験を探し求めるよう、強く衝き動かされるようになります」

 

「神よ、あなたのご意志と調和できるよう私を助けてください」
「あなたがすべての面倒を見てくださること、私は祝福を受け取り、体験することになることを知っています」

 


32人の待ち時間は、これらの言葉といっしょにありながら、とてもありがたい時間になっていった。

 

「私は祝福を受け取り、体験することになる」
という言葉を読んだとき、一瞬にして切り替わった。

 

するとあの祈り、Who are my brothers and sisters?も何か別の知覚へと導いてくれるものとして感じられてくる。

 

両替を終えて銀行を出るときにはエクスパンションを感じながら上機嫌で出ていくことになった。

 

 

そして今日一日の仕事が終わったあと、深夜のカフェで温かい紅茶を飲みながら、この書き起こし文をみていたときのこと。
生まれて初めて「主よ、私をあなたの道具としてお使いください」という祈りを祈ってもいい、祈りたい、という状態にあることに気がついた。

 

これまでは「さすがに道具はちょっと。。。」という感じだったのだけど、今は、そこにしかよろこびがない、ということが体感的に教えられてきて、自然と祈れるようになってきてると感じる。

 

そうなんだ。
それ以上のよろこびは、どうやら自分でつくりだすのは無理っぽい。
あのエクスパンションは自分ではつくりだせない。

 

それが体感されてきてるので、以前のようなこの祈りへの恐れや抵抗がなくなってきてるんだと思う。

 

そして、今表面意識で「つながりたい」と思ってる人たちとも、私が神の道具となることでこそ、究極的には完全につながることができる、だからこっちに進むことによって失うものもなにもない、と感じられつつあるのもたすけになっている。

 

 

義務感からではなく、これこそがよろこびなんだという実感とともに
こんなふうに祈ってもいいと思える日がくるなんて。

 

「あなたは私に何をさせたいですか?」
「どこへ行かせたいですか?」
「誰に何を伝えさせたいですか?」
「主よ、私をあなたの道具としてお使いください」
「私のすべてを、あなたのためにお役立てください」

 

本気でこれらを祈っていくことで、いったい何が待ってるんだろう?というドキドキ感はある。

でも、そもそも何が真のよろこびか知らないのに、自分でよろこびをもたらせるわけがない。
何が真のよろこびか知ってるイエスに任せる。

 


そして、そうやって生きさせてもらう中で、


「何か感情的な苦痛を感じるときにはいつでも・・
これは無駄にしたり逃したり、押し退けたりなどしたくない、
ものすごく大きなチャンスなんだ、と感じられるようになっていきます」

by デイヴィッド。

 

まさに・・・!!!!だ〜〜〜!!!!前回のブログに書いたことがそのままこれに当てはまる。
ありがたいっす。ありがとうございます。