「私の思考」とガイダンス
朝起きてからしばらくのあいだ、
昨日寝る前にブログに書いたこと
「主よ、私をあなたの道具としてお使いください」
のことを思い出し、
「あ〜あ〜、あんなの書いちゃってまあ」「今はそうでもないくせに」
というような否定する思考が湧き上がってきてるのに気づいていた。
否定する思考が上がってきていて、実際昨日ほど「この祈りを祈りたい♡」とは感じれてないけど、
あの瞬間はブログに書いたとおりだったからまあいいか・・くらいに思っていた。
そんな折、
台湾のコース公式facebookページの投稿が目についた。
いつもは中まで見に行ったりはしないのだけど、抜粋されていた
「思考が多すぎて、ゆるしが追いつかないんです」という質問がなぜか気になってリンク先まで見に行くことにした。
コースの中国語翻訳をした若水という人が答えている、その内容:
学習者:『私の問題は思考が多すぎることなんです。ゆるしが追いつきません。』
若水:『多くの人が同じような問題を抱えていますね。思考がとまらないと。
思考とはいったい何なのでしょう?
なぜ私たちはただこう座ってるだけで思考が湧いてくるのでしょう?
それは、私たちが自己(セルフ、神)と一緒にいたくない、自己(セルフ、神)から離れたいと思っていて、それゆえに意味のない思考を生み出しているのです。
・・・私たちは「自己(神)」といっしょになるということを恐れいています。
無意識に、「自己(神)といっしょにいることはとても恐ろしい、それはいくつもの恐ろしい記憶を想起させることだ」と感じているのです。
そういうわけで、思考は(神といっしょになることから)あなたを守っているわけです』
実際の回答はもっと長く、この先も続くのだけど、
このあたりを読んだところでぐわっと目を開かれた。
ああ、そうやな、、毎日の生活のなかでいろんな思考があって、それらを「当たり前にあるもの」と受け入れてるけど、
これらみんなまさに「神から離れておくため」の思考やねんな。。。
そして夜仕事が終わってまた温かい紅茶を飲みながら、この気づきが広がっていっている。
ああ、なるほど!ガイダンスをもとめるしかないのは当たり前やんけ!
「私の思考」の目的が神から離れることなのなら、
この思考についていくことで、どこかへ、何か確かなものへたどり着けるわけがない。
「神から逃げ続けれてる」という夢をみてるだけや。どこにも行き着かん。
めっちゃ当たり前やんけ。。。
そりゃあたしかに
「あなたは私に何をさせたいですか?」
「どこへ行かせたいですか?」
「誰に何を伝えさせたいですか?」
「主よ、私をあなたの道具としてお使いください」
「私のすべてを、あなたのためにお役立てください」
と祈るしかないわなあ・・・。これしかない。
「私の思考」がこんな、まったくあてにならないものである以上。
当たり前にあるものだと思ってる「私の思考」を、
こうして神と、神から逃げないといけないという思い込みという大きな画のなかで捉えてみると、それをあてにすることの無意味さ、そしてガイダンスやインスピレーションにしか意味も力もないということが、深く腑に落ちる。
そしてこのブログを書こうともう一度台湾のコース公式facebookを見に行ってみると、一番上にコース31章セクション5の最後の文が投稿されていたのだけど、
これがまたこのタイミングにどんぴしゃだった。
「世界がもっとも恐れていることは、あなたがこのように言うことだ。
私は自分がなんなのか知らない。
自分が何をしているのかも知らないし、
自分がどこにいるのかも知らない。
さらに自分が世界や自分自身をどのように見ればいいかもわからない。
でもあなたがこのように言えることを学ぶことで、
救いがやってくるのだ。
あなたの真実が、それ自身についてあなたに教えてくれるだろう。」
わーい!ほんとにわからないぜ!!!