フランセスの動画2本からの覚え書き。
「求めること、信頼すること」
私がやるのはそれだけ、という1本目からの続き。
具体的な日常でどうそれを生きるか?
私たちは自分が肉体だと信じているかぎり、
多かれ少なかれ、どこかに犠牲者意識を抱えている。
それが毎日の日常のベースになってる。
(逆にいうと犠牲者意識を正当化するために肉体に同一化してるのか・・)
ガイダンスは、すべての知覚の元の元、コアの思考の場所へ向かうようガイドしてくれる。
すべての知覚の目的はそこにある。
で、ここから本番。
「自分が望まない状況」「選択肢がない状況」が知覚されているとき。
(肉体に同一化して犠牲者意識をベースにした生き方だと、多かれ少なかれまちがいないく「自分が望まない状況」を知覚することになる)
今まではそういう状況にたいして、
「自分の、神から分離したという罪悪感が原因で、そこから始まって、
ああしてこうしてこうなって、この現実世界を投影してこのような映像をみせている」
というような解釈をして、
その解釈のもと、さてどうするか?祈るのか?助けを求めるのか?みたいに捉えていた。
つまり前提として、このような知覚が目の前にあるのは自分のせいだ、自分がわるい、(そしてこれは自分のせいでたしかに起こったのだ)みたいにいつのまにかなっていたのだと思う。
でもフランセスのここからの言葉は違っていた。
「私はこの状況を選ばなかった。
だとしたら、これは他の何かによって選ばれたに違いない」
「他の何かとは、もっとも愛に満ちた力以外にありえない」
「これを私は選ばなかった。だとしたらこれは私のために選ばれたに違いない」
この信頼。
この信頼。
この信頼は、なにか証拠をみせてもらえたから信頼します、というようなものではまったくない。
(考えてみると「信頼したいけど、証拠をみせてもらえたら信頼します、見せてもらえないなら信頼できません」というのは自分を被害者、犠牲者の場所に置き続ける思考だ)
スピリットが、制限のある思考しかできない私に代わって
私のためにここまで連れてきてくれた。
その信頼を、どんな状況にみえるなかでもその瞬間、ささげることができる。
この壮大な信頼の力を、あらゆる人が持っている。
そして「スピリットがここまで連れてきてくれた」という信頼がささげられた瞬間、
「わたしの原初の罪悪感のせいでこんな知覚が生まれることになった」というストーリーが取り消される。
なぜならずっとスピリットしかいなかったのだと認めることになるから。
そのストーリーは起きていなかった。
「それは起きていなかった」
これって言葉としては何度も聞いてきたことだけど、それを本当に知るための鍵、本当に受け入れるための鍵が、スピリットがすべてを手配していることへの信頼をささげることだったんだ。
今すぐ、この状況のなかでささげることができる、スピリットへの全的な信頼。
「自分が望まなかったような状況」のなかで、
「私が選んだのでないとすれば、これを選んだのはもっとも愛に満ちた力以外にない」
という信頼。
この信頼の力、信頼をささげる力は壮大なもので、それがわたしのなかにある。
証拠がなくても信頼する力があるんだ。
これはすごいパラダイムシフトに感じている。
今日このことについてこうすけさんと話してるとき、ふと聖書の言葉として聞いたことがある
「見ずに信じるものは幸いです」
という言葉を思い出した。
あれってこういうことか。
そしてどんな瞬間も、どんな状況でも、
この場所へ連れてきてくれたのは私の制限された思考ではなく
愛に満ちたスピリットなんだという信頼を捧げているとき、
ラファエルがよく見せてくれていた
知覚されるあらゆることのなかにスピリットのサインをみつける、
ということが、初めて自然なことのように感じられてきた。
この今の知覚のなかで、祝福されている。
そしてこのスピリットへの信頼のなかで、でてくるものは自然にださせてあげるだけになる。闇をそのままださせてあげるだけになる。
そこにはスピリットへの信頼しかないから、どんな闇がでてきても、それに絡んでいって複雑にしたりそこに浸り込んだりといったことにはならないと感じる。
追記:「スピリットがこれを選んだ、ここまで連れてきた」っていうこの考え方って、スピリットは教えるためにひどい現実を起こしたりしません、という話といっけん矛盾してるように聞こえるかもしれないけど、そうじゃない。
ひどい現実は起こっていなかったと知っているスピリットへの信頼をささげるという話なんだと思う。
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