救い

台灣での日常の一部になっていたカフェ界隈で年齢があきらかになってから、
やはりそれまでその場所で使っていた自己概念の崩壊を感じていて、

社会性を失ったような、
この世界のなかでどう人と接していけばいいのか、
その接点を失ったような感覚を感じていた。

 


そのときに、やはり立ち戻る場所としてのりこさんのテキストを思い出して、
ずっと暗唱してきた自分のインタビュー用にアレンジしたものではなくて、
オリジナルのテキストに立ち返りたい感覚を覚えた。

 

そうしてオリジナルのテキストを思い出したとき、

 

聖霊のことをどんな呼び名でよんでもかまわない、
私たち全員のなかにその愛の心はあって、
それぞれが親しめる名前で呼ぶことができる。。。」

 

といったあたりの箇所が、色濃いものとして、響く内容として感じられた。

そうだ、この辺ちょっと見失ってたんだ。

目の前の人のなかに、同じ愛の心があるということが視界から消えていた。

 


テキストのその部分を見返すことで、
たとえ莫大な罪悪感を隠すために投影されたこの世界だとしても、
この世界のなかで知覚している目の前のすべての人たちの中にあって、
同時にわたしたち全員をつつんでいるひとつの心・
真の自己に注意を向けることができる・・・と感じられてきた。

 

その人がどんな形態をあらわしていようと、
目の前の人をとおして、真の自己にふれることができる。

 


そして感じられてきたこと。

 

この世界でやるべきことはなんなのか。

 

その、全員のなかにある、わたしたちの真の自己のために生きること。

 

そのために、目の前に、いろんな人の姿をとおして真の自己があらわれてくれている。

 

全員のなかにあって、全員をつつんでいる、真の自己だけに焦点をあてて生きたい。
というかもうそこしかなくなってきた。

 

そう思えたとき、
自分個人の死とか将来とか好きな人に振り向いてもらえるかとかの「問題」が、スッと背景に消えていくような感覚を覚えた。

 

この感覚が続くとも思えないけど、
目の前の人をとおして、わたしたち全員の真の自己に注意を向けていくことができるというのは、今現時点での救いに感じられる。