愛からの分離という前提を維持している結果

最近の兄弟のブログを見て上がってくる、
彼らは間違っているという思考だったり、
彼らは敵だという知覚とか、派閥的思考。
間違いを指摘してやろうという衝動・攻撃。


あるいは兄弟が本当に平安になることを防ごうという衝動。
ある程度のいい感じになるのはいいけど、真の平安にいたるのはゆるせない。

 

そういうものが内側にあるのを見て。

 

レッスン47のコントラストが非常にはっきりと浮かび上がってくる。

 

神の平安以外に平安はないし、神の強さ以外にたよれるものはない。 

けんたとしてけんたという人間を維持したまま、
他の兄弟と聖性にみちた関係をきずく・・・とかいうのはハナから無理なんだ。

 

このわたしが知覚しているすべてが、「愛から分離できる」というあの小さな狂った考え(Tiny mad idea)から生じた必然にすぎない。
あのTMI(Tiny Mad Idea )の結果の範疇で、そのなかでうまくやろうとしたって、
兄弟がどうしようと、どうあろうと、絶対に不満や攻撃がでてくる。

 

「私が間違っていることを望む」のは、あのTMIの結果の中での話ではなくて、
あのTMIが生まれたように見える場所、その場所でのあのアイデアそのものについてのこと以外にないんだ。

 

他の信念についてたとえ間違いが訂正されたとしても、TMIの間違いが訂正されない限り、分離は必然の結果であり、当然のように攻撃は起動しつづける。

 

ここを見て、受け入れていくことにしか救いはないと感じている。


けんたという「愛からの分離は可能だった」という前提の結果生じた人間が敵意や憎悪から自由になることは、その前提的に不可能だと受け入れること。
そして、じゃあ何が真の自由なのかと求めること。
TMIについての真実を求めること。

 

愛からの分離という前提が維持されている限り、敵意と憎悪からは、何があっても、兄弟が何をしてくれようとも自由になれない。

 


「これだけ恩を受けているはずの兄弟」とかにたいする敵意を自覚するのは本当に嫌だし抵抗があるし人間的に終わってるという思考もあるけど、
スペシフィックな形で現れざるを得ない自分のなかの敵意について、タブーなく気づけて浮上させていけることについては、ありがたいと感じている。

 

これら全部について間違ったことを言ってるのかもしれないけど、これが今感じていること。