レッスン51
今日からレッスンは最初の復習に入った。
今回また1から始めているレッスンは
以前とは比べようもない深さを感じさせてくれているけど、
「復習は復習だろう」
とちょっと安易に考えていた。
けど、実際にみてみると、
最近の一連の体験(3月と4月の合宿やラファエルの講義、輪島シューティング、フランセスの動画など・・)
と驚くほどシンクロしているのを感じて、
ここ最近の学びが復習・統合・強化されるような感覚が入ってきた。
ここに書かれている内容をさらに心に深く浸透させたい。
(以下はレッスン51の英語を見ながら、自分に響く感じにざっと意訳したもの)
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Lesson1
私が見るものには何ひとつ意味がない。
つまり私は何も見ていない。
これを認める必要がある。
そうして初めて、「本当に見ること」について学ぶことができる。
私が見ていると思っていることが、ビジョンの場所を奪っている。
私が見ていると思っていることにはまったく意味がないことを認めることで、ビジョンがその場所に戻れるようになる。
Lesson2
私が見ているものの私にとっての意味はすべて、私自身が与えたものだ。
私が見ているものは、私がジャッジしたものだけだ。これはビジョンではない。
これは幻想にすぎない。
なぜなら、私は真の現実からかけ離れた場所でジャッジをくだしているからだ。
私は真に見たいので、私のジャッジの有効性のなさを認識したい。
私のジャッジは私を傷つけてきた。そのジャッジにもとづいた見方をやめたい。
MEMOーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
真の現実からかけ離れた場所=
あの「小さな狂った考え」のあとに、そのアイデアにもとづいて、すべての私のジャッジはくだされている。
つまり、真の現実からはかけ離れている・・・。
そのジャッジだけを見ている。
それがこの世界の私の知覚。
これが「見ること」・・・?
聖霊の見方を受け入れ、聖霊のまなざしを見せてもらうしかない。
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Lesson3
私は見ているものを何ひとつ理解していない。
誤ってジャッジしてしまっているものを、どうして理解することができるだろうか。
私が見ているものは、私自身の誤った思考の反映。
それは理解しえない代物なので、私には理解できない。
それを理解しようとすることは無意味だ。
そしてそれを手放すあらゆる理由がある。
そうすることで、
真に見ることができて、理解できて、愛することができるもののために場所をあけることになる。
そうしたいと望むだけで、それと取り替えることができる。
これは以前した選択よりもよい選択だと言えないだろうか?
MEMOーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私の誤った思考=
「神の愛以外の何かが存在しうる」
「愛からの分離は可能だ」
=小さな狂った考え。
これを基盤にした思考の反映だけを私は見ている。知覚している。
本当のことを教えてほしい。
そのためにはこの知覚(誤った思考の反映)すべてについて、私が間違っていることを受け入れたい。)
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Lesson4
これらの思考には、何の意味もない。
私が気づいている思考には何の意味もない。
なぜなら私は神なしで考えようとしているから。
「私の思考」と私が呼ぶものは、私の真の思考ではない。
私の真の思考は、私が神とともに考える思考だ。
私が真の思考に気づいていないのは、「私の思考」によってその場所を奪っているから。
私はすすんで、自分の思考に意味がないことを認め、手放したい。
私の思考には意味はないが、神とともに私が考える思考のなかには創造されたすべてがある。
Lesson5
私が動揺するのは決して私が考える理由によるのではない。
なぜなら私は私自身の思考を絶え間なく正当化(Justify)しようとしているからだ。
絶え間なくそれらを真実にしようとしているからだ。
私はすべてを私の敵に仕立て上げ、そうすることで怒りを正当化し、私の攻撃性が正当なものであるようにする。
そうした「敵としての役割」をすべてにあてがうことで、いかにこれまですべてを誤って用いてきたのか、私は理解していなかった。
私はこれを、自分を傷つける思考システムを保護するためにやっていた。
私はそれをもうほしくないので手放したい。
MEMOーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ラファエルの講義で、JustifyとDisplaceが重要な2つの言葉として提示されていた。
絶え間なく、内側にあるダークネスの原因をこの外側の世界に移し変え(Displace)、正当化しようとしている。
そのことを意識すると、
「私が動揺するのは決して私が考える理由によるのではない」というのは、本当にそのとおりだと感じられてくる。
でもそれを本当に目の前のことについて実感するのはなかなか難しいと感じる。
一瞬でも垣間見えるとき、個人としての現実の知覚がふっとぶような激しい変化のようなものも感じる。
少しずつでも、ステップバイステップで導かれていきたい。