あますところなく。
フランセスの動画「Chaotic World And Forgiveness」のなかで印象に残っていることのひとつ。
「恐れを取り除く唯一の方法は、
恐れの源まで行って、恐れがどこにあるのかをみることです。
恐れは自我の思考システムの内側にあります。
ではどうすれば恐れの源までズームインしていくことができるのでしょう?
私たちはそこまで掘り起こしていく必要はありません。
今この瞬間、目の前にあるように見える状況において
何であれ心の中、思考の中に浮かび上がってくるもの、
それが私たちが赦すべきものなんです。」
(05:21〜05:59あたり)
恐れを取り除くために、恐れの源まで「内側」を深堀りしていく必要はない。
今目の前にあらわれている知覚世界に、
今見るべきすべてが表れている、ということ。
このことが腑に落ちてきている。
自分の目の前に知覚されている世界や状況。
そこにしっかり直面していく。
そこで感じること、
浮かび上がってくることに焦点を精細に合わせれば、
おのずと源への深堀りと同じようなことが起こってくる。
(だから「今どういう知覚のなかで、何を感じているか?」に焦点をあわせる)
その中に、
つまり目の前の知覚(とそれにたいして浮かび上がってくるもの)の中に、
あの小さな狂った考えから生まれた(ようにみえる)闇のすべてが反映されているのを見ることができる。
大事に感じるのは、
「知覚から離れた、私自身の内面を深掘っていくんだ」
というのが、どうやら違ってたかも、ということ。
知覚を無視して「内側」に向かおうとすると、
その知覚としてあらわれていた自我の思考システムの一部が、
直視されることなく温存されるように感じる。
(ラファエルが、エクスプレッションのときに「具体的な状況」を特定することをすすめてきたのはそういうことか・・という腑に落ちもある。)
知覚から離れて、知覚を無視して内面に向かうのではなくて、
全ての知覚(とそれにたいして浮かび上がってくるもの)に本当に正面から向き合うことで、
この宇宙を生み出すレベルの心の闇に、
本当にあますところなく直面できるんじゃないだろうか。
仕事の問題も肉体の老いも中国や香港の問題もコロナもすべて、
除外する必要がない。
温存する必要がない。
心の巨大な闇は、ちゃんと私の知覚として反映されているから、
そこをみていけばいい。
知覚を無視して内側に向かうんじゃない。
知覚を通して内側に、この世界を超えた場所に向かう。
そしてあらゆる知覚の問題に対して、
そのこたえ、救いは今すでに与えられている。
(それを信頼し、求めることができる。それが私たちの持ってる力。)
ある種の知覚は救われないまま放置して、
そのままあきらめて、
内側に向かうことで何か別の救いを、
もっといいものがあるからこれで満足できるだろ、
みたいなものをみつけるんだ・・
というイメージを持っていたことに気づく。
そうじゃなくて、あらゆる知覚にたいして救いがある。救われている。
あますところなく。
それがうれしいと感じる。