ありがとうございます。
ジーザス、
聖霊のみちびきで11月の頭にリビンクミラクルズの年末フリーオンラインリトリートへのお誘いを受け取って、その流れで年末年始のオンラインリトリートに参加することになりました。
このことが、本当に導いてもらえてたんだという体験をさせてもらえました。
ありがとうございます。
リトリートのなかで、ある参加者の
「どうしようもなく、なんでもないトリガーで(誰かがただと挨拶してくるとか)で激しい激怒が上がってくるんです」
というシェアにたいしてDavidが、
「それは神にたいするego(自我)の感情なんだよ。あなたものではないんだよ」
と話したこと。
このことが今の自分にとってとてつもなく助けになりました。
同じような言葉はこれまでも聞いたことがあったけど、
どういうわけかとても深く入ってきた。
これが非常に助けになったのは、
ずっと最近のテーマというか否応なく向き合わざるをえなくなっている
今の世界への絶望感と、それにまつわって上がってくる感情についてだった。
コロナは怖いからマスクやワクチンは当たり前、と思えていたらまだ楽だったのかもしれない。
でも自分で情報をとった結果、この世界レベルでわかった(そうだと信じている)のは、
ある目的をもった壮大な嘘が世界中で指揮されていて、ないものを怖がり、ないものに対策して、自分で自分たちの自由や人間性を捨てて経済を壊していっている人々の姿。
(たとえば何十年も前から「伝染病パニックを利用して、経済を壊して人々の自由を奪うことによって私有財産を奪い、あらゆる人を管理する」ということがある会議で計画されてるという話がずっと前に出版された本にかかれてたりとか、
今回のコロナ対応で、何カ国もの国のトップが台本にかかれているかのようなほぼ同じセリフのスピーチを国民にたいしてしてたりとか(誰の台本?)、
ベラルーシの大統領が暴露した「世界銀行とIMFから約10億ドルの賄賂と引き換えに、「厳格なロックダウン」「国民のマスク着用」「夜間外出禁止令」「警察国家化」「経済を崩壊させる」という要求があって、ベラルーシの大統領がそれを拒否したら「独裁者だから糾弾しろキャンペーン」が世界のマスコミを使って展開された話とか
世界中で「コロナ死」の数を水増しするよう指示やお金が行っている話とか(ほとんどの国で少なくとも9割以上が他の死因という報告も)
ぜんぜん感染してない人やキウイフルーツの汁ですら「陽性」にしてしまうPCR検査を使って「感染者」を増やしてる話とか(無症状が多い理由)
PCR陽性者=感染者ではないと国会で厚労省も認めたのに、かたくなに陽性者という表現ではなく「感染者」として毎日煽ってくるマスコミの話とか
日本ではインフルエンザの検査をしないように通達がでてて現場レベルからも「インフルがコロナにカウントされてるはず」っていう声が出てる話とか
そもそも新型コロナウイルスは『病原体』としての存在を証明する条件を一度も満たしたことがないとか
存在自体確認されてないとか(確認したという論文が出たけど取り下げられた)
厚労省が新型コロナウイルスが実在する科学的証拠の開示を要求されて2ヶ月たっても出せてない話とか
ニューヨークや武漢でのコロナの怖さを伝えるニュース映像に、「クライシスアクター」(ある目的をもって危機をあおるためにニュースに映る演技者)があきらかにそれとわかる演技をして映っていた話とか
身近なコロナ対策をみても謎だらけだったのが(マスクは逆効果という報告のほうが探せば多いのに、やけにマスク着用にこだわるとか)辻褄があう話ばかり・・。
ヒットラーが言ったという
「大きな嘘ほど大衆は騙される」
「嘘でも大声で充分時間をかけて何回も繰り返せば大衆はそれを信じる」
そのまんま)
こういう話には耳も傾けず、むしろ積極的にマスコミの情報をありがたがり、
怖がる必要のないコロナを怖がって、全く意味なく自分たちの首をしめるだけの緊急事態宣言にも賛成したりする人の姿をみるとき、
上がってくる感情はとても苦々しい。苦しい。絶望を感じる。
本当に苦しく感じたし、
今日はとくに、駅前でマスクなしで立っているときに、
すごい恐れが上がってきた。
周りを歩いている大勢の人、
全員がマスクをつけているそれらの人々が、
自分と完全に分かたれていて、通じあえなくて、自分を攻撃してくる可能性をもっている、という知覚。
そういうふうに知覚されて、これまでになくすごく恐れが上がってきた。
そのときに、あのDavidの言葉がとてつもない助けになった。
「この感情、平安以外で感じている感情はすべて、
神にたいする自我の感情なんだよ」
「だからそれをゆるして、通り過ぎさせてあげればいいよ」
一見そうは見えなくても、
平安以外のあらゆる感情、この苦々しさ、怖さを感じている原因は外側にはなくて、
内側にある・・という方へ方向を向け直させてくれたような感じだった。
恐れて外側に向かっていた意識の方向が、内側に戻ってきた。
そして目を閉じて、自分の内側を感じることができると、
恐れが通り抜けていって、心に落ち着きがもどってきた。
助かった。
そのあと一日をすごすなかで、
何かがシフトしたように感じている。
もちろん、上記のコロナ関連についての見方には、
「自分が正しい」
「この正しい見方をしている自分が実在している」
「その正しい自分がこれこれこういうわけで恐怖や苦々しさを感じている」
という主張があったわけだけど、
こういう「自分の正しさ」と「その正しさをベースにして感じる動揺」が、
なんかどうでもええことのようになったような、
そういう感じのシフトのようなものを感じている。
この感じている動揺が
自我が神に対して感じてる感情をみないですむように
外側に気をそらすために感じているものなんだとしたら、
そういう企てのもとに感じてるものなんだとしたら、
この動揺を正当化するための理論(自分の世界にたいする見方が正しくて、それが正しいからこそ私はこの動揺を感じている)が、
どうでもよくなったような感じ、、、、なのかな。
なんか慣れないような、妙な感じも覚えたけど、
なにかどっか力みが外れたような、
焦点が切り替わったような、リラックスのようなものを感じる。
ジーザス、本当にありがとうございます。
ジーザス、
最近の外側の世界の知覚に救いがないおかげで、
本当に本当に内側にしか向かうところがない、救いがないというのを教えられています。
どうか私に本当のことをこれからも引き続き教えて下さい。
私は本当のことを、天国を受け入れたい。