イエスの心

エスは知覚がどんなふうであっても、
完全に平和な心の状態だった
知覚がどんなであれ、
身体が磔にされているように見えても、
心は完全に平和だった
その心こそが自由なんだよ
という話をラファエルがしてくれていたとき、
それが真実だということ
そういう心の状態が本当に可能なんだということが
今入る分だけ入ってきた。

今の自分が直面しているように見える知覚のなかでも、
まったく同じ。
自由とはそれ以外にありえない。

コースの目的は、良い関係を築くことですらない。
それが心の反映として現れるかもしれないけど、
それが目的ではない、という話もしてくれた。

そして、
エスがどんな知覚のなかでも完全に心が平和なんだとしたら、
エスがこの賢太という人間の知覚を知覚したときも
その心は完全に平和なのか・・というのが今入る分だけ入ってきた。

そのとき、どういうわけか
この賢太という人間の心とイエスの心に分離はなくて、
エスの完全に平安な心をとおして
この賢太という人の知覚をみることができる、
という感覚を感じ始めた。
その知覚がどんなひどいように見えるものであっても関係なく
完全に平安な心をとおして。

そうすると、
これまでこの心の状態が当たり前だと思ってきた賢太の心の状態が、
いかによろこびから遠ざかったものであったのか、
いかによろこびを抑圧したものであったのか、
ということが今感じられる分だけ感じられてきた。

そして、それに何の問題もないし、何も間違っていないということも。

この賢太の心が変化して平和なものになっていく必要があるわけではない。

「イエスはすでに世に勝っている」という聖書だったかコースだったかの言葉が何度も浮かぶ。

その心を受け入れるだけ、という感じがしている。