欠乏感でつくった世界

welcomejwithintention.hatenablog.com

 

(江の島の続き)

 

3人でインスピレーションをたずねながら、
昼ごはんを食べるための食堂に入りました。

こうしていっしょにインスピレーションをたずねながら動けることも本当にありがたいことだと感じます。

じゅんこさん、れいさん、そして彼らをとおしてメッセージを与えてくれるスピリット、イエスに、本当にありがたいな・・と、今あらためて感じます。

ありがとうございます。

食堂に入るとお店の人に「窓際のテーブル席か、手前の座敷か、どっちでもいいですよ」と言われました。

結局座敷になったのですが、じゅんこさんが「くつを脱ぎたくないという前提があったので、インスピレーションを尋ねようとしなかった」(というような内容だったと思う)ということをシェアしてくれました。

それをきっかけに、先日の伊豆で自分にも同じようなことがあったことをシェアしました。
ヌルヌルして滑りやすい浅い海を歩いて渡るとき、「この一足しかないくつを濡らすわけにはいかない」という思考に執着していて、ラファエルとれいさんは早々にくつを履いて渡ることにしたのに、自分はどうすればいいか尋ねもせず、裸足で強行突破した結果危ない目にあったという話。

この話について、れいさんが
「くつを濡らしたくないから、という理由づけをしてるけど、本当の理由は無価値感とか欠乏感だよね。これ以上失いたくないっていう」
というような話をしてくれました。
(正確な言葉とかは違っていたかもしれません)

この話が、大きな気づきを与えてくれたように感じました。

ああそうか。

くつを履く、履かないの選択に見えたけど、
その下にはたしかに巨大な欠乏感がある。

欠乏感がなければ「くつを守らなければ」なんて思考はでてこない。

これほどまでに日常のすべてに、この欠乏感が浸透しているのか、
自分がみているこの世界のベースに欠乏感があるのか。

そういうことを感じさせてもらうことができました。

「あなたは憎しみのなかでこの世界をつくった」というような言葉がコースにあったと記憶していますが、
「わたしは欠乏感でこの世界をつくった」とも言えそうだな、と感じていました。

 

その後のカフェでもこのことを感じていて、
「これほどまでにベースに欠乏感・無価値感があるんだ、ということを受け入れた場所からでないと、
奇跡に焦点を合わせようとは思えないんだろうな・・」
という思いが湧いてきたことをシェアしました。

れいさんが言ってくれたように、私には気づいていない、気づこうとしていない奇跡がいっぱいあったはず。

でも「自分は自分である程度やれている」「自分は自分ひとりで大丈夫だ」という態度が根底にある限り、奇跡の必要性を見ていないのでそこに焦点を合わせようとはしない。

今まで「過去に向かいたくないから」という理由で
起こった奇跡のことを語れないんだと思っていたけど、
どうやら「自分はやれてるはずだから、奇跡の必要性を見ない、見たくない」というのが本当の理由だったらしい。

そういうことを感じていました。

このときの気づきは、
この日の終わりの出来事への大きな準備にもなっていたと思います。

完璧な采配でした。

この一連の流れのなかでも、
じゅんこさん、れいさんが、
本当にその時その時で完璧なパスを出すかのようにしながら
連動してここまで導いてくれたように感じます。

ありがとうございます。