「ぼくのかんがえた ぼくのさいきょうの ぼくりろん」

エスちゃん、
すごい怒りがでてきて、
ああ、これは見んといけんのうってなっとった。

ほいで何か自然に
こんなに激しい感情がでてくる元にある信念って何なんや?ってなって、
自然とインストゥルメントフォーピースのようなことをやっとった。

ほしたら、
「ぼくのかんがえた ぼくのさいきょうの ぼくりろん」
みたいなのが奥にあって、
それに固執して、
そのごっつ狭いスペースの中で生きてきとったんじゃっていうふうに感じられてきたんじゃ。

「ぼくのかんがえた ぼくのさいきょうの ぼくりろん」

にもとづいて、いろんなジャッジが起こって、
そのジャッジ(思考)に基づいていろんな感情もつくられてわきあがってくる。

なんか今までうっすら感じながら見んようにしよった
子供のときからずーっと変わらず続いとる
自分の幼稚さが腑に落ちた感じもしとる。


ほいで、
あんたのガイダンスにこころを開かん、耳を傾けんっちゅうことは、

クオール

「ぼくのかんがえた ぼくのさいきょうの ぼくりろん」
をつかみつづけるっちゅう選択なんじゃっていうこと、

さらには「ぼくのかんがえた ぼくのさいきょうの ぼくりろん」
にもとづいた攻撃や怒りを持ち続けるっちゅう選択なんじゃなって、

そういうふうに感じられて、

ほしたらあんたのガイダンスに耳を傾けたほうがぜんぜん幸せちゃうんか・・?

って、ある面から納得させてもらえそうな感じがしとる。

ほんまにすべてが最善のことのために起こっとるんじゃの。
あんたの支配下で。

ありがとうの。

わしは
「ぼくのかんがえた ぼくのさいきょうの ぼくりろん」
を完全に手放して、
あんたの声に完全にこころを開きたい。

そうできるように、
どうかたすけておくれ。