逐次報告
この前の勉強会で、自分の前がこうすけさんだった。
今までも何回か、自分の前のこうすけさんのときに話された内容がすげー入ってくるということがあった記憶があるけど、今回のは特にやばかった。
ちょっと前、なみえさんと平安へのツールやったときにけっこう大きな腑に落ち感があって、本当に尋ねるしかないんだなとある程度腑に落ちたつもり、わかったつもりになっていた。
でもそのときに話されていたこと
(聖霊やイエスに聞いてもこたえがよくわからないのなら、
とにかくまずは自分のなかで起こっていることを逐次報告するんだよ、
そうやってつながりを築くんだよ、というような話だったと思う)
を聞いたとき、
自分はぜんぜんそういう形でつながりを築いていなかった、
自分のなかで起こっていること・やっていることは自分にも聖霊にも隠す気まんまんで、
クレクレ君のように自分の中はある程度閉じたまま、与えないままで、
「役に立つガイダンスをくれよ!よこせよ!」
とやっていたんだと気づかされた。
そして自分にはこれ(逐次報告)はすごい必要なことだと感じた。
自分のなかで起こっていることを逐一、聖霊・イエスに報告すること。
こうすけさんの時間が終わって10分くらい休憩があったときに
そうしようと試してみた。
するとたった10分だけでも
今までいかに自分がやっとることを自分で見ないようにして聖霊やイエスにも隠そうとしとったんかと思い知らされた。
そのとき以来、俺はこれをやっていかんといけん、とすごく感じて、
できるかぎりそのようにしようと思った。
そうしてその翌日くらいからすごく感じられてきたのは、
今までいかに自分がやっとることを自分で見ないようにしとったんか、
そうやって見ないことで「ある程度やれとる」「進んできとる」というふうにとんでもない勘違いをして、自他にそれをアピールしようとしとったんか、ということじゃった。
自分のなかで起こっとること、やっとることを逐次聖霊イエスに報告しようとしとると、
本当にやべーくらいまったく一歩も進めとらんし、
それどころか「コースをやる」ことの入り口にも立っとらんとしか思えんかった。
今までこんな勘違い状態でみんなにたいして偉そうに上から目線じゃった。
申し訳ないという思いが上がってきた。
謙虚さとかかっこええような感じとか何か理解したところからじゃなく、ほんまにこのできてなさ、最後尾でしかないやんけ、としか思えんかった。
今もそれは変わらんけど、
でもこうして
「自分がやっとること、自分のなかで起こっとることを聖霊イエスに逐次報告してもええ、そうしたいと思える」
という場所まで連れてきてもらえたのは何ものにも代えがたい恩寵じゃというふうに感じとる。
ここまで導いてくれてありがとうございます。
自分のなかでやっとること起こっとることを逐一聖霊イエスに報告するということをやっとると、
自分ではそれ(自分でやっとること)を裁いとったんじゃなと感じ(だからこそ自分に隠しとった)、
聖霊イエスはどうやら自分とは違う見方をしてくれとるようじゃ、と感じる。
だからこそ、自分のなかで何が起こっとっても、それを聖霊イエスに報告しても大丈夫なように感じる。
ほいで多分じゃけど、このできてない自分が何らかのかたちでよくなっていくとか、どっかの道を歩めていくわけじゃないような感じがしとって、救いがあるんじゃとしたらこの俺そのものがいませんでしたっていうことにしかないんちゃうかなという感じもある。知らんけど。
今できるのはとにかく逐次報告しながらたずねるしかない感じです。
ありがとうございます。