それがあるのは認めるけど、
それを個人的に受け取らないとしたらどうなるだろう。

快楽が得られないという苦しみも。

快楽が得られたといううれしさも。

そこに重要性を付与していることも。

快楽だけを求めることで深い関係性を忌避していることも。

そうやって愛がわからないといって泣き叫んでいることも。

 

やっぱり、これらが自分だという見方をしているときよりも、
これらをあるがままにして、意識のなかに迎え入れられるように感じる。

あるがままに意識のなかに迎え入れられることで、
それらを聖霊にわたすこともできるように感じる。

本当の見方と取りかえてもらえる可能性に開けるように感じる。

 

ありがとうございます。