幻想の影響を受けない真理

今回のインストゥルメントフォーピースをやり始めたとき、
表面的な「考えの違い」とかがわたしたちの分断を確定させるようなものなんかではないんだと心底知りたい!と感じた。

そしてたしかにそうなんだ、
こんな表面的な考えの違い、感じ方の違いなんて、
私たちが真にひとつであることにとっては問題になるようなことではないんだ、ということを今感じられるだけ感じさせてもらえました。

父、イエス、ありがとうございます。

私の知覚が間違っていること、
私の知覚がいくら分断や不幸を叫んでいるように見えても、
真理はまったく影響を受けておらず
つねにかわらずわたしたちの中心で輝いているということをもっともっと感じたいです。

 

 

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真理は、わたしの欲求をとおして取り戻される。
それは、私が真理以外の何かを欲することによって失われたからです。

 

 

 

 

父が、コロナについてテレビで言われているデタラメをそのまま信じ込んでしまったようなコメントをして、私が紹介した「本当のこと」が書いてある記事を真に受けないことについて考えるとき、

怒り、悲しみ、虚しさ、無価値感を感じます。

なぜなら、テレビの言うことを信じ込んでしまう父が責められるべきであるし、
未来に、このような意見の対立によって私たちの分断が永続していく、お互いにわかりあえなくなって決裂してひとつになる幸せを感じることができなくなることが起こるのを恐れているからです。

これらのことは、私たちが
「考えの違い」というものによって分断されてしまう、基本的に分離したバラバラの存在で、一体感という幸せからかけ離れた存在だということについて正しいことを証明しています。

 

私は今の感情を好まない。
なので私が知覚していることが真実ではない可能性を受け入れる準備ができています。

癒やしのプロセスを受け入れるため、
私はこの動揺(に私が与えた意味)を超えてみること、
そして自分の心の内側を見ることを意志します。

 

私は以下の事象の中で私が演じている役割を、罪悪感なしに見る方法があることを学びたい。

「父が、コロナについてテレビで言われているデタラメをそのまま信じ込んでしまったようなコメントをして、私が紹介した「本当のこと」が書いてある記事を真に受けないことについて考えるとき、

怒り、悲しみ、虚しさ、無価値感を感じます。

なぜなら、テレビの言うことを信じ込んでしまう父が責められるべきであるし、
未来に、このような意見の対立によって私たちの分断が永続していく、お互いにわかりあえなくなって決裂してひとつになる幸せを感じることができなくなることが起こるのを恐れているからです。」

 

私は以下の知覚について、自分の見方・考え方こそが正しいのだ!という望みを手放してもいいだろうか?


『父が、コロナについてテレビで言われているデタラメをそのまま信じ込んでしまったようなコメントをして、私が紹介した「本当のこと」が書いてある記事を真に受けないことについて考えるとき、

怒り、悲しみ、虚しさ、無価値感を感じます。

なぜなら、テレビの言うことを信じ込んでしまう父が責められるべきであるし、
未来に、このような意見の対立によって私たちの分断が永続していく、お互いにわかりあえなくなって決裂してひとつになる幸せを感じることができなくなることが起こるのを恐れているからです。

これらのことは、私たちが
「考えの違い」というものによって分断されてしまう、基本的に分離したバラバラの存在で、一体感という幸せからかけ離れた存在だということについて正しいことを証明しています。』

 

私は別の見方を知りたい、教えてほしい。
こんな「考えの違い」とかによって、私たちが一体感や幸せを感じれないのは何かがおかしい。何かが間違ってる。
私は自分の今のこの見方こそが正しいのだ!と言い張りたい望みを手放す。

そしてそのかわりに幸せであることを望む。

自我というゆがんだ考え方・見方をとおして、
私は自分の動揺の原因とその解決方法が
心の外側にあると知覚している。

この投影はとってもリアルに見える。
なぜならその目的は、
心が内側を見ることを妨げることだから。

 

もし私の心の動揺の原因と解決方法が心の外側にあるのだとしたら、
私は自分の心の状態について実に無力ということになります。

私の投影(内側に見たくないものを外側に見ること)が
私が無力さを感じる理由であり、

テレビや新聞のデタラメを信じてしまう父や、
未来に、「考えの違い」によって分断が永続してしまって幸せが永遠に得られないことが起こることを恐れることが、
私の動揺の原因のように見える理由なんです。

 

 

『父が、コロナについてテレビで言われているデタラメをそのまま信じ込んでしまったようなコメントをして、私が紹介した「本当のこと」が書いてある記事を真に受けないことについて考えるとき、

怒り、悲しみ、虚しさ、無価値感を感じます。

なぜなら、テレビの言うことを信じ込んでしまう父が責められるべきであるし、
未来に、このような意見の対立によって私たちの分断が永続していく、お互いにわかりあえなくなって決裂してひとつになる幸せを感じることができなくなることが起こるのを恐れているからです。』


これらすべては、
『私たちが
「考えの違い」というものによって分断されてしまう、基本的に分離したバラバラの存在で、一体感という幸せからかけ離れた存在だ』
という信念の結果としてあらわれたものです。

 

私が誰かや何かにたいして動揺するのは、
その誰かや何かが、
私が意識の外に追いやろうとしている信念を映し返しているときだけです。

私がこの世界の何かを責めたり恐れたりするとき、
それは動揺とその解決方法をあるがままに(つまり心のなかの決断として)見ることを妨げるためであり、
その代わりに信念を見ないようにするために作り上げた自己概念、他者、世界のイメージを保持するためなのです。


この心のトリックによって、
罪悪感や恐れの責任をどこかに押しつけることができると感じられるかもしれませんが、
それによって罪悪感や恐れの感覚が維持されることになります。

また、自己概念や他者、世界のイメージを責めたり恐れたりすることによって、
自分自身を肉体と肉体の世界に制限することになり、
本来の自分自身である「肉体ではない、スピリチュアルな抽象性」を否定することになります。


すべての動揺を手放す最初のステップとして、
自分の外側にあると思っていたものを、
自分の心の中に見ることを私は望みます。


「父が、コロナについてテレビで言われているデタラメをそのまま信じ込んでしまったようなコメントをして、私が紹介した「本当のこと」が書いてある記事を真に受けないこと」
について動揺することは、

テレビや新聞のデタラメを信じてしまう父や、
未来に、「考えの違い」によって分断が永続してしまって幸せが永遠に得られないことが起こることを恐れることが、
私の罪悪感・恐れ(という感情)の原因であることにしようとする、ひとつの企てにすぎません。

 


「父が、コロナについてテレビで言われているデタラメをそのまま信じ込んでしまったようなコメントをして、私が紹介した「本当のこと」が書いてある記事を真に受けないこと」が、
私が求めていることに反するとき、
この知覚に動揺することは価値があり、理にかなっていて正当化できるように見えます。

私が求め、期待している(いた)のは、
「父がわたしと同じ意見をもってくれること、それによってよい関係を築ける」ということです。

 

私はまだ、
『私たちは
「考えの違い」というものによって分断されてしまう、基本的に分離したバラバラの存在で、一体感という幸せからかけ離れた存在だ』

ということを信じているので、

私が幸せになり、完全になり、平安になるためには、
「父がわたしと同じ意見をもってくれること、それによってよい関係を築ける」ことが必要だと考えています。

 

この不足の信念と、この信念から必然的に生じる渇望・必要性を持ち続けることは、
私にとって平安よりも重要なものだろうか?

 

 

この世界のすべてのものごとはひとつになって私の最善のために働いてくれています。

私が動揺の原因だと考えたものは、まったくそうではありませんでした。

この外側の知覚に動揺するという選択は、
動揺の真の原因である、今この瞬間心のなかでくだされている「分離・不足を信じる」という決断とその決断の力を見ないという選択なんです。

これは今の「完全な幸福ではない心の状態」の原因が過去・未来にあり、
現在の心の状態はその結果なのだと見ようとする企てなんです。

 

今この瞬間、私が何にもまして求めているのは平安です。

私は自分にとってのただ一つの目的である平安と再びつながるために、

『私たちは
「考えの違い」というものによって分断されてしまう、基本的に分離したバラバラの存在で、一体感という幸せからかけ離れた存在だ』
という信念に疑問を呈し、

「父がわたしと同じ意見をもってくれること、それによってよい関係を築ける」ことが必要だという欲求を、私の自由意志にもとづいて手放します。

 

心の平安とは、今この瞬間、感謝のなかで下すことのできる決断です。

罪悪感や結果への恐れが今この瞬間感じられているように見えたのは、
私が過去や未来に「今」の原因があるという信念にすがりつくことに決めたからでした。

私は自分が過去・未来に与えた意味を手放し、解放されていて無垢である「今」にたいして心を開きます。


私は、今までこの世界にあると思ってきた動揺の原因が、実際には
心のなかの吟味されることがなかった信念と決断にあったと認識できたことに感謝します。

私は私自身の心の平安のために、もう一度決断しました。