私には何ひとつわからない場所
初日。
モスバーガーを食べながらラファエルが話してくてたことが、
自分の最近の苦しい知覚や祈りのこたえを与えてくれたように感じた。
そのためのメモ。
(このメモは今の自分のなかにあるものを書いたものなので、ラファエルが言ったとおりのことではありません。)
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私たちには「〇〇が問題だ」というふうに問題をdefine(定義)できない。
IFP(平安へのツール)で「これが問題だったんだ!」と思えるような信念を特定できたとしても、それで自分にとっての問題を定義できたつもりにならない。
問題のある世界をつくりだしてしまった(ように見える)私たちにそれはできない。
(問題の外側にいる存在にしかわからない。)
それぐらい、「この世界を見て問題を見ている」ということは、巨大で深い。
こういうツールは心の方向性を向け直すためのもので、問題がなにかを理解して知ったつもりになるためのものではない。
それらしい信念にIFP(平安へのツール)でつきあたって「おお!」となったとしても、どうしてその信念が問題になってるのか、究極のところはわたしにはわからない。 -
マインドレベルでも、形のレベルでも、どうすればこのダークネスから出られるのか、私にはわからない。
やり方はわからない。
だからこれらすべての外にいる存在に完全にたよるしかない。
それぐらい、「この世界を見て問題を見ている」ということは、巨大で深い。
だからつねに毎瞬間すべてを、問題の外にいる存在にささげてガイダンスをたずねるしかない。
そして具体的にガイダンスをたずねていくための方便としてファンクションがある。 -
「脚本はすべてすでに書かれている」というのは本当に完全に文字通りその意味。
選択肢は完全にない。
今この一瞬決断して腕を上げる!とかのささいな行為すらも。
でもそれでもなお、奇跡を体験するために、奇跡の体験をとおして納得させてもらうために、「すべてが書かれている」としても、あらゆる瞬間を聖霊にささげ、チューニングする。あらゆる瞬間。 -
コースやIFP(平安へのツール)など、この世界にあるどんな教えもツールも、最終的なゴールはこれを知って受け入れること。
つまり私は完全に何も知らないということを。
問題が何なのかさえわからないということを。
だから問題の外側にいる存在に聞いて導いてもらうしかないんだということを。
→コースにある「以下の宣言以上にこの世界が恐れいてるものはない。でもこの学びのなかに救済が生まれる。」というやつ。
それがこの世界にあるあらゆる教えやツールのゴール。
「私は私が何であるかを知らない。
だから、自分が何をしているのか、どこにいるのか、世界や自分をどのように見ればよいのかも知らない。」
(奇跡講座テキスト31章セクション5,17,6-8) - ジーザスも、最後の最後まで「フォロワー」だった。
この世界の苦しみの外への連れ出し方を知っている、導いてくれる、ガイダンスにたいする。
話を聞いてるときのしばらくの間、ラファエルがしゃべっているようで、イエスがしゃべっているようだった。
私が最近感じていた苦しみや祈りのこたえを与えられたように感じた。
イエスの存在を一瞬身近に感じて、その一瞬だけでもありがたくて、一瞬涙がこみあげたのと同時に、爆発的な笑いが起こる感じもあった。
こうしてジーザスやこの世界にあるあらゆる教えが導こうとしている
「私には何ひとつ完全にわからない」という場所に、
自分の全存在をぶつけたい、というのが湧いてきた。