Joining , コネクション
きょうの勉強会でのりこさんが話されていた、
「けんたのエロ・性欲への囚われも
他のあらゆるかたちであらわれる依存や中毒と同じなんだ」
という話がとてもたすけになった。
そして昨日聞いたばかりのひとつの寓話がここにつながった。
ひとりの男。
社会的には成功していて立派に生きているように見えるが、
どんなに成功してもどこか満たされないものを感じていてアルコールに逃げている。
もうひとりの登場人物は
外にでていくことができない、ひきこもりの女性。
この二人はそれぞれ自分で作った箱のなかで生きて不自由さを感じているけど、
その箱のなかで「これは自分のものだ」と思っている趣味嗜好があり、
スピリットはそれ使って導いていく。
そうしてスピリットの導きで二人は出会い、
つながりを感じ、
あるインスピレーションに導かれて二人でバーに行くことになる。
女性にとって、これは自分の箱の外に出る大きな機会であったし、
男性にとっても、いつもなら酒をかっくらうことにしかならない現場にいくということは
彼にとっての大きな機会だった。
彼らにとってのそれぞれの箱を突破していく機会は、
「Joining」、いっしょになること、によって与えられることになった。
そしてバーに入って起こったこと。
彼はそのときに感じていた真のコネクションによって、
もはやアルコールを必要だと感じることはなかった。
・・・・という話。
この男性の話(アルコールへの中毒)と、
今日聞いた、けんたのエロ・性欲への囚われはあらゆる形の依存・中毒と同じなんやという話がバチバチにつながった。
ああ、おれはコネクションの感覚の欠如をこれで埋めたかったんか。
分離の感覚を麻痺させ、維持するために、この中毒に逃げる必要がある。
コネクションがない、分離しているという感覚と、
この中毒に逃げるということがイコールでつながっとったんじゃな、ということがこれまでになく感じられてきた。
分離の感覚があるけえこの中毒に逃げるし、
この中毒に逃げ続けるけえ、分離の感覚がキープされつづける。
もしも、この寓話のなかの男性のように
真のコネクションを感じられたとしたら、
わしのこのエロ・性欲への囚われは違って感じられるようになるんじゃろうか・・と思ったとき、
大きな何か、大きな可能性のようなものが開かれるような感じがした。
今までずーーーっと、自分で自分にもつこと感じさせることをゆるさず、否定してきたコネクション。
それをゆるせるのか・・・
そしたらぜんぜんかわって感じられるのか・・・
みたいな感覚。
このようにして、
毎日教えてもらえることに感謝します。
ありがとうございます。