自分で参加して、自分で撮る。
この前の勉強会で、映画プロジェクトについてのりこさんが話していた言葉がぐわっと入ってきた。
自分で参加して、自分で撮る。(というような意味の言葉だったと思う)
なるほどー・・・・!!!
この世界から出るために必要なことのように感じる。
「参加する者」だけだと、被害者でずっといられる。
なるほどーーーーー。。。
「撮る」ということは、
この自分というキャラ、自分が見ている世界にまつわって起こっていると信じてることすべてを、
聖霊に手渡すことの象徴のように感じられる。
参加すること、それを撮ること、
その両者である意識をもつ。
これをとおして、自分が同一化しているすべてを聖霊に手渡すということをやらせてもらえるのか、、、という感覚。
(実際映画を撮る撮らないに関わらず、人生すべてをそのように使ってもらうといいのかもしれない・・)
こうなったら、自分が同一化することで生じている(と思っている)すべてを湧き上がらせてゆるして表にだしてあげるしかすることがない、と感じる。
わたしはそれを撮る者でもあるから、大丈夫、という感じ。
思いっきり、出し尽くしても大丈夫。
大丈夫だという聖霊の見方に一致して、聖霊の見方を受け入れるために、こういう「自分で参加して、自分で撮る」という機会が与えられてるのかな。
「参加者」であるだけだと、被害者でい続けることができて、
聖霊の見方との一致点がありえないのかな、という感じ。
ラファエルがいなくても撮るんだ、ということの意味が以前はまったくピンときてなかった。
このときの勉強会の話をきいて、少しずつ入ってきつつあるかもしれない。
映画プロジェクトがそういう機会なのであれば、
やろうぜ。。そのために聖霊に耳を傾けて、聖霊に使われようぜ。。。という、
今まで触れてなかった、腹の下のほうで眠っていたモチベーションが起き上がってくるような感じがする。