真理だけを求める

前の記事で『「私」の世界には死と攻撃しかない』と書いた。

これと似たようなことを、ユタでのダイエットセッションで感じていた。
自分のなかには攻撃しかないと。

でもそれは間違いだった。

これらすべては私ではなかった。

そのことをユタで、モナという女性が聖霊のメッセージとして教えてくれた。

それがあなたではないんだよ。

あなたはそれではないよ。

 


ユタで受け取ったもうひとつの大きなメッセージは
「あなたは求めなさすぎる」だった。

もっともっと求めていいんだよ。

何を?

そのときははっきりしていなかった。
もっと究極的な幸せのようなものを求めていんだ、という感じにとらえていた。

 

それがもうすこしはっきりしてきた。

 

真理だけをもとめていいんだよ。
本当のあなたである光と愛だけをもとめていいんだよ。

そしてそうでないものは「これは真理ではない」「これは私ではない」と宣言していいんだよ。

そこまで求めていいのか。

 

本当のことと、そうでないことを明確にし、
本当でないことを(それに責任を感じて)持ち続けたり、自分と同一化するのをやめてもいい。

「自分には攻撃の思いしかない」なんて、抱え込まなくていい。それを自分に教えなくていい。

それがあなたではないんだよ。

 

それを認めて、宣言してよかったんだ。

 

あらゆる自我にまつわる思いに、同じことが言える。

この体にまつわるあらゆる思いにも。

 

今、目の前にあらわれてくるこれらの思い、自我やからだにまつわるすべての思いについて、同じように宣言することができる。

私はこれではない。

 

思えば、自我にたいして、それを持ち続けないといけないという責任みたいなものを感じていたのがわかる。

自我を保持し続ける責任が自分にはあるから、愛や真理だけを求めるわけにはいかない、みたいな。

 

でも、真実である光や愛だけを、究極だけを求めてもいいんだ。

(保持する責任のある自我を生んだ分離なんて、本当は起こっていないのだし)

 

そして求めたら、
あと出てくるものはどちらかしかない。

真実か、そうでないものか。

その区別を、瞬間瞬間明確にしていく。

 

瞬間瞬間求め、瞬間瞬間でてくるものを明確に区別していく。

真実でないものは真実ではない、私ではないと認めていい。宣言していい。

 

真理だけを求めます。

 

ありがとうございます。